第16話:水理局長の狂気、あるいは地下水路の侵入者
「――な、なんだと……!? ガザードの部隊が、あの寒村の小僧一人に追い返されただと!?」
王都・宮廷水理局の局長室。
豪奢な革張り椅子からガタリと跳ね起きたバドリック卿は、血走った目を剥き出しにして分厚いオーク材の机を激しく叩いた。目の前で頭を垂れているのは、這う這うの体で逃げ帰ってきた査問官ガザードである。
彼の鎧は泥にまみれ、顔には無様に転んだ際の擦り傷がいくつも刻まれていた。
「も、申し訳ありません、局長……! まさか、あの泥沼だったはずの街道が、魔導防壁のように細工されておりまして……! 足場を完全に奪われ、まともに立つことすらできませんでした! おまけに、リリア様が主席監査官の権限と公印を使ってアレンを擁護したため、表立って手出しができず……!」
「役立たずめが……っ! 無能の言い訳など聞きたくないわ!」
激昂したバドリックは、手に持っていた銀のインク壺をガザードの足元めがけて力任せに投げつけた。ガチャンッ!と鈍い音を立てて割れたガラス片と、飛び散った黒いインクが、王都の職人が織り上げた最高級の絨毯を無惨に汚していく。
ガザードが額から冷や汗を流しながら縮み上がった。
一介の左遷された落ちこぼれ技官ごときに、自分の手足であるはずの武装武官が手も足も出ずに返り討ちに遭うなど、バドリックのプライドと権力構造にとって耐え難い侮辱だった。
「ただの不毛な寒村だったはずのバルツァーが、今や東部の一大拠点になりつつあるだと……? 農業が栄え、道が通じ、東部の商人どもが群がっているだと……ふざけるな! あんな場所が栄えれば、わしが過去に下した左遷の判断が誤りだったと、貴族院の連中に露呈してしまうではないか!」
バドリックの脳裏をよぎるのは、失墜する自身の政治的地位と、周囲からの嘲笑への恐怖、そして自分をコケにしたアレンという存在への剥き出しの憎悪だった。
狂気に満ちた瞳をギラつかせ、バドリックは執務室の奥にある隠し金庫から、一通の禍々しい黒い封書を取り出した。表向きの法や権力が使えないなら、闇の手段に訴えるまでだ。
「もはや表立った手口を選んではいられない……。ガザード、お前は表向きの役目を外れろ。裏の闇ギルドに伝手のある者を使え。あの村の心臓部――新しく引かれたという地下水道パイプラインと、魔力発光石のネットワークの中枢を、徹底的に物理的・魔力的に破壊し尽くせ!」
「は、はっ……! すべてを灰にし、アレンを生きたまま引きずり出します!」
「そうだ。すべてを奪い、あの小僧に這いつくばる絶望を味あわせてやれ……!」
王都の権力者の歪んだ私怨が、バルツァー村へと向けて再び黒い牙を剥こうとしていた。
数日後の深夜。
「――フン、表から押し返されたからといって、今度はこんな薄汚い地下水路からコソコソ潜り込むとはな」
王都の闇ギルドから派遣された凄腕の魔導工作員――ドロウは、暗い地下パイプラインの中で下卑た笑みを浮かべていた。
水理局長バドリックから下された密命は、「バルツァー村の心臓部である水道と魔力網を内部から爆破し、村全体を再び泥の底に沈めること」。そのために彼は、王都の宮廷魔術師すら容易には手に入らない「魔力崩壊の黒水晶」を懐に忍ばせていた。
「表向きの街道や遊水池とやらは確かに見事だったがね……所詮は田舎の寄せ集めだ。この地下の心臓部に特製の呪詛晶石を仕掛けて一斉起爆させれば、村ごと木端微塵よ」
ドロウは闇に紛れ、新しく整備されたパイプラインを奥へと進んでいく。
だが、歩みを進めるごとに、熟練の工作員である彼の額にじっとりと冷たい汗が滲み始めていた。
(……なんだ、この地下水路は。石積みじゃない……継ぎ目が一切ないぞ。それに、触れても全く魔力の残滓を感じない。極めて硬質な、未知の素材で完全にコーティングされている……王都の地下水道より遥かに高度だ。一体誰がこんな異常なものを作ったんだ?)
ドロウが知る由もなかった。
その地下水道そのものが、すでにアレンの敷いた『超巨大確率演算基盤』と直結しており、単なる水の通り道ではなく「村全体を管理する超巨大なセキュリティ・ネットワーク(生体・魔力認証システム)」の端末として完全構築されていたことを。
「……まあいい、どんな頑丈な壁だろうが、この黒水晶の崩壊魔力には耐えられまい。ここに晶石をセットし――」
ドロウがパイプの壁面に手を掛け、呪詛晶石を押し込もうとした瞬間だった。
ピピッ――……!
足元のセラミック床が、突如として青白い冷たい幾何学模様の光を放った。
「なっ……!? 魔導陣が勝手に光っただと……っ!?」
ドロウの背筋に、得体の知れない悪寒が走った。
逃げ出そうと足を引こうとしたが、すでに遅い。彼が踏みしめていた床面の一部がズブズブと液状化し、泥のように絡みついて一歩も動けなくなっていたのだ。
「バカな……! トラップの術式を発動した覚えはないぞ! なんだこの空間は……まるで、この地下水路自体が……意思を持って俺を観察しているような……っ!」
暗闇のパイプラインの奥から、無機質で冷徹な魔力の脈動が響いてくる。
侵入者を自ら狩り立てる「インフラの牙」が、今まさに音を立てて動き出そうとしていた。




