第9話 家族やないので
美容室「そのだ」の前に軽トラを停めて、透は運転席に座ったまま待った。
客が二人いる。順番待ちの雑誌をめくっている老女と、いま鋏を入れられている中年の男。狭い店だ。話し声が外まで漏れてくる。
三十分待って、二人が出ていった。
透はドアを開けた。
「あら、この前の」
佐知子が振り返った。
その瞬間、喉の奥が動いた。
透は口を閉じた。閉じたまま、奥歯を噛んだ。
舌の付け根が持ち上がる。錆びた戸が内側から押されるような感触があって、何かがそこまで上がってきている。出したいわけではない。透の意思とは関係なく、勝手に動いている。
――ごめ
喉の途中で、透はそれを飲み込んだ。
「榊さん?」
佐知子が首をかしげている。
「顔、白いけど」
「……いえ」
透は一度、外の空気を吸ってから店に入った。
※
近い。だが、出ない。
鏡の前の椅子に座りながら、透はそのことを考えていた。
康夫の前では、何も起きなかった。佐知子の前では、動いた。動いたのに、全部は出てこない。
祖父はこれを「手が届く」と呼んだ。近いというだけで、届いたわけではない。
あと少しだけ強く口を開けば、切れ端が漏れる。漏れたぶんは佐知子に居着いて、この人は一生、意味のわからない一言を頭の中で繰り返すことになる。
透は膝の上で手を握った。
「立花さん、亡くなったんですってね」
佐知子が言った。鋏は持っていない。今日はまだ髪に触れていない。
「今朝、お客さんから聞きました」
「昨日の明け方です」
「そう」
佐知子はタオルを畳み始めた。畳む必要のないタオルだった。
「お通夜、明日ですか」
「明日の六時からです」
「そう」
同じ返事だった。
※
「わたし、行きません」
しばらくして、佐知子はそう言った。
「家族やないので」
「立花さんとこに、いらしたと聞きました」
「おりました。九年ほどね」
佐知子はタオルを棚に置いた。手つきに迷いはない。
「小学校の四年から、高校を出るまで。うちの親が二人とも早うに死んで、行くとこがのうて。町議さんの家やから、面倒見のええ家やと思われとったんでしょうね」
「よくしてもらいましたか」
「よくしてもらいました。ご飯も、学校も、修学旅行のお金も」
佐知子は少し笑った。目は笑っていなかった。
「けど、うちの子や、とは一遍も言われませんでした」
店の外を、自転車が通っていった。
「戸籍も入れてもらえんかった。それは、わかるんです。町議さんの家やから、あとで財産のことでややこしなる。大人の事情いうやつでしょう」
「……はい」
「わかるんですけど、十八で家を出るときにね」
佐知子の手が、タオルの上で止まった。
「奥さんが、玄関で、よう頑張ったねって言わはったんです。よう頑張ったね、って」
透は待った。
「あれ、よその子に言う言葉やなあ、と思いました」
※
便利堂に戻ると、留守番電話が入っていた。
立花康夫からだった。実家の片付けを頼みたいという。四十九日を待たずに始めたいので、見積もりだけでも早めに、と。
「便利屋の仕事ですね」
千鶴が言った。にやにやしている。
「便利屋の仕事だ」
「ついでに調べるのが便利屋の仕事ですね」
「今回はついででもない」
透は受話器を置いた。
届ける場所が要る。佐知子は通夜にも葬儀にも来ない。美容室で客のいない時間を狙って、いきなり口を開くわけにもいかない。
トキは「ふいに来てほしい」と言った。だがそれは、受け取る側の都合を考えていない言い方だった。
※
翌日、立花の家に入った。
町の東側の、庭のある古い家だ。廊下が長い。仏間の欄間に細かい彫り物が入っている。康夫と、名古屋から来ている長男が、押し入れの段ボールを縁側に運び出していた。
「母は物を捨てない人でした」
康夫が苦笑した。
「これ、たぶん昭和のものですよ」
透は仏間の棚を任された。位牌と、写真立てと、古いアルバムが並んでいる。
三段目の引き出しを開けた。
封筒が入っていた。輪ゴムでまとめてある。中身は写真だった。
小学生の女の子が、庭で犬を撫でている。
次の写真は、中学の制服を着た同じ子だった。その次は、高校の入学式らしい。校門の前で、立花トキと並んで立っている。
最後の一枚は、成績表だった。写真ではない。二つ折りにした紙が、写真と一緒に挟んである。
園田佐知子
透は封筒を閉じた。
中身を読むな。掟その二だ。読んで判断すれば、届けないという選択ができてしまう。
だが読まなくても、もうわかっていた。
※
その封筒を、康夫に渡した。
康夫はしばらく黙って写真を見ていた。
「……この子、知ってます」
「そうですか」
「うちにいた子です。僕が高校のころ、下宿してた妹みたいな。あ、いや」
康夫は言い直した。
「妹みたいな、というのは、僕が勝手に思っとっただけで」
「立花さんは、なんて呼んでましたか」
「母ですか」
康夫は少し考えた。
「……あの子、って呼んでましたね。ずっと」
※
押し入れの奥から、新聞の束が出てきたのは夕方だった。
紐でくくった古新聞で、ほとんどは近所の店の折込を取ってあるだけのものだった。だが、いちばん下の束だけが違った。
地方紙の一面が、上を向いて重ねてある。
十五年前の八月だった。
高潮、という文字が見えた。
その下の記事は、透の位置からは読めない。読もうとして、透は自分の手が止まっているのに気づいた。
「榊さん、それも捨てますか」
康夫が縁側から声をかけた。
透は新聞を裏返して、紐のまま束の脇に置いた。
「……仕分けは、あとで」
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
※
帰り際、康夫が言った。
「園田さん、来てくれますかね。通夜」
「行かない、と言ってました」
「そうですか」
康夫は縁側に腰を下ろした。
「うち、あの子に何もしてやれんかったんです。母も、僕らも。だから来んのは当たり前です」
「立花さんは、写真を取っておかれました」
「取っておくのは、何かしたことになりませんよ」
康夫はそう言って、少し笑った。
「なりませんでしょう」
透は答えられなかった。
※
夜、美容室の前をもう一度通った。
明かりは点いていた。ガラス戸に紙が一枚、内側から貼ってある。透は軽トラを停めて、それを読んだ。
勝手ながら、今月末をもちまして閉店いたします。
長い間ありがとうございました。
千鶴が助手席から身を乗り出した。
「え、閉めるんですか」
「今月末って、あと四日だ」
言ってから、透は自分の声が少し硬いことに気づいた。




