第10話 よその子
翌日の夕方、透は美容室「そのだ」の向かいに軽トラを停めた。
閉店時間は六時だった。最後の客が店を出てからも、佐知子は床を掃き、洗ったタオルを奥へ運んでいる。透は道路の反対側で待ち、ガラス戸の札が営業中から閉店へ返されたところで車を降りた。
戸を開ける前に、胸の奥へ意識を向ける。
トキの言葉はまだそこにあった。
透はガラス戸を軽く叩いた。
奥から戻ってきた佐知子が鍵を開ける。
「すみません。もう閉めたんですけど」
「榊便利堂の榊です」
名乗ったところで、佐知子と目が合った。
喉が動いた。
透が何かを説明する暇はなかった。胸の奥に収まっていたものが持ち上がり、そのまま声になる。
「ごめんね」
病室で聞いたものより、ずっと張りのある声だった。
佐知子の手が、ガラス戸の鍵に触れたまま止まる。
「ごめんね。あんたのこと、よう見てやれんかった」
そこで声は途切れた。
透は口を閉じた。
七日近く抱えていた重さが、胸の内側からなくなっている。
佐知子はしばらく鍵から手を離さなかった。
旧道を自転車が通り過ぎる。向かいの店ではシャッターを下ろす音がしていた。
やがて佐知子が透を見る。
「立花さんですね」
「はい」
「やっぱり」
佐知子は店の中へ戻り、入口近くの椅子へ腰を下ろした。透には座るよう言わなかったので、そのまま戸口に立っていた。
「若い声やった」
「若い?」
「わたしがあの家におったころの声です。奥さん、あんな声でした」
佐知子は鏡のない壁へ目を向けた。
「榊さん」
「はい」
「これ、何に対して謝ってはるんでしょうね」
透には答えられなかった。
佐知子も答えを求めている様子ではなく、自分の膝に置いた手を見ながら続けた。
「戸籍に入れんかったことか、最後までうちの子と言わんかったことか。ほかにも、わたしが知らんだけで何かあったんかもしれません」
「俺には、言葉しか預かれないので」
「そうでしょうね」
佐知子はあっさり頷いた。
「本人がおらんようになってから謝られても、何のことか訊けませんしね。ちょっと勝手やと思います」
店の時計が六時十二分を指していた。
佐知子は立ち上がり、さっき途中にしていたタオルを一枚取った。きれいに畳んで棚へ置いてから、小さく息を吐く。
「でも、よその子には謝りませんね。ふつう」
透は何も返さなかった。
佐知子もそれ以上トキの話をせず、入口の鍵へ手を伸ばした。
そこで透は、ガラス戸に貼られた閉店の紙を思い出した。
「園田さん」
「はい」
「話変わるんですけど」
「なんです?」
「この店、閉めるんですよね」
佐知子が怪訝そうに透を見る。
「貼り紙、見たので。椅子とかシャンプー台とか、処分するなら見積もり出せます」
数秒置いて、佐知子が笑った。
「今、その営業します?」
「便利屋なので」
「変わった人やねえ」
「よく言われます」
佐知子は店内を見回した。
「ほな、明日見てもらおかな。自分で運べんもんが結構あるんです」
「朝から来ます」
「九時でええですよ。店はもう開けませんから」
話が決まると、佐知子は今度こそ戸の鍵を閉めた。
※
美容室を空にするのには三日かかった。
鏡台を壁から外し、シャンプー台の配管を止め、乾燥機や待合の椅子を軽トラへ載せる。処分するものと残すものは佐知子自身が決め、透は指示されたものだけを運んだ。
二日目から千鶴も手伝いに来た。
「あたし、美容室のシャンプー台って初めて触りました」
「触る前に元栓見ろよ」
「大丈夫です。昨日のあたしとは違います」
「昨日なんかやったのか」
「そこは気にしないでください」
佐知子が奥から雑巾を二枚持ってきた。
「藤木さんとこの子やろ」
「孫です」
「知ってる。お爺ちゃんに似とるね」
「え、どこがです?」
「よく喋るとこ」
「それ褒めてます?」
佐知子は答えず、千鶴へ雑巾を渡した。
店内から物が減るにつれて、二十八年間隠れていた壁や床が見えるようになった。鏡の跡だけ壁紙の色が違い、待合椅子の下には何年も前のヘアピンが一本落ちていた。
佐知子はそれを拾い、しばらく眺めてからごみ袋へ入れた。
「長かったですね」
千鶴が言う。
「何が?」
「二十八年」
「終わってみたら、そんなでもないよ」
佐知子は店の奥に残った段ボールを閉じた。
この町を離れ、町外で暮らす娘の近くへ移るのだという。孫の世話を手伝ってほしいと言われており、店を続けるか迷っていたところに話が決まったらしい。
トキのことは、三日間一度も話題にならなかった。
透も出さなかった。
※
三日目の夕方、最後の荷物を軽トラへ積んだ。
店の中には、備え付けの棚と古い時計くらいしか残っていない。佐知子は床を一周して忘れ物がないか確かめると、入口に貼ってあった閉店の紙を剥がした。
「これ、どうするんです?」
千鶴が訊く。
「捨てます」
佐知子は紙を二つに折り、ごみ袋へ入れた。
「取っておかないんですか」
「取っといて、どうするん」
「いや、二十八年の記念とか」
「店は覚えとるよ。紙までいらん」
千鶴は少し考えたあと、「それもそうか」と言って次の袋を縛った。
透は荷台のロープを締め、佐知子へ作業内容を確認してもらった。
「請求書は後で郵送します」
「ちゃんと請求してくださいよ」
「します」
「立花さんから聞いとったんです。榊さん、自分の仕事の金を取るの下手やって」
透はロープを引く手を止めた。
「そんな話してたんですか」
「見舞いに行ったときにね」
佐知子はそれ以上説明せず、ハンドバッグから店の鍵を出した。
ガラス戸を閉め、最後に一度だけ鍵を回す。
「お世話になりました」
「こちらこそ」
佐知子は軽トラの荷台を見た。
「立花さんのことも」
透が黙っていると、佐知子は小さく頭を下げた。
「聞けてよかった、とはまだ言えませんけど」
「はい」
「でも、聞いたことは忘れんと思います」
佐知子はそれだけ言って、旧道を歩いていった。
※
その日の夜、透は事務所で請求書を書いた。
美容室の撤去作業について、人工と運搬費、処分場へ持ち込んだ分を計算する。立花家の片付けも残っていたので、そちらも同じように数字を入れた。
千鶴が向かいで封筒を用意している。
「六月のやつもありますからね」
「覚えてる」
「六月十日」
「覚えてるって」
「じゃあ出してください」
透は古い請求書の日付を書き直し、まとめて封筒へ入れた。
美容室の請求書には、取り外した設備や運搬の内容が並んでいる。立花家の方にも、家具の移動や処分費を書いた。
トキから預かった言葉について書く欄は、最初からない。
千鶴が封筒の口を糊付けしながら訊いた。
「園田さん、どうでした?」
「何が」
「届いて」
透はペンの蓋を閉めた。
「何に謝られたのかわからないって言ってた」
「そっか」
千鶴はそれ以上訊かず、封筒をほかの郵便物と一緒に重ねた。
案件が終われば、いつもどおり便利堂の仕事だけが残る。
その仕事には金額を書けた。
※
夜十時前、透は千鶴を乾物屋まで送った。
店の前で降りた千鶴は、ドアを閉める前に助手席から透を見る。
「次の依頼、まだないですよね」
「ない」
「じゃあ明日休みません?」
「仕事入ってる」
「何です?」
「雨樋」
「ほら、休まない」
千鶴は呆れたようにドアを閉め、店の横の階段を上がっていった。
二階に明かりが点くのを見てから、透は軽トラを出した。
商店街を抜けると、道沿いの家が少なくなる。窓を少し開けると、昼間に熱を持った空気の中へ田んぼの匂いが混じった。
胸の奥に預かった声はない。
透は県道へ入り、ヘッドライトの先を見ながら速度を上げた。
次のカーブが近づき、アクセルから足を離した。




