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預かり屋 榊便利堂 -最期の一言を、七日以内に届ける-  作者: MIYA
案件03「事故現場」

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第11話 頼まれていない

カーブを抜けた先に、赤いものが見えた。


 最初はテールランプだと思った。速度を落として近づくと、それが横を向いていることに気づいた。


 軽のワゴンが、ガードレールに突っ込んでいた。


 鼻先が潰れて、ボンネットが持ち上がっている。ガラスの破片が路面に散っていて、ヘッドライトの中で光っていた。ラジエーターから白い湯気が上がっている。事故から、そう時間は経っていない。


 透は軽トラを路肩に寄せて、ハザードを出した。


 降りると、稲の匂いがした。田んぼの風だ。それから、焦げたゴムの匂いが混ざった。


           ※


 運転席に、男がいた。


 五十代くらいだろうか。シートベルトはしている。ハンドルとシートのあいだに胸が挟まっていて、体がわずかに斜めになっていた。


 「聞こえますか」


 男の目が動いた。開いている。


 透はスマートフォンを出して、一一九番を押した。


 場所を訊かれて、少し詰まった。県道の、臥雲神社の下のカーブ。目印になるものが何もない。田んぼと、電柱と、切れかけた街灯だけだ。


 「臥雲町の、旧造船所の一キロ手前です。北向きの車線」


 通報を終えて、透は運転席の窓に手をかけた。ドアは開かなかった。


 「動かさないほうがいいので、そのままで」


 男は何か言おうとして、うまく声にならなかった。


 「救急車、来ます。もうすぐです」


           ※


 嘘ではなかった。だが、この町の救急は隣町から来る。夜なら十五分はかかる。


 透は男のそばにしゃがんだ。


 「便利屋か」


 男が言った。


 透の作業着の胸に、色褪せた刺繍がある。榊便利堂。


 「そうです」


 「……ええな」


 何がいいのか、透にはわからなかった。


 男の呼吸は速く、浅くなっていた。額に汗が浮いている。夜なのに、シャツの襟が濡れていた。


 「他に人は、乗ってませんでしたか」


 「おらん。ひとりや」


 「どこから来ました」


 男は答えなかった。その代わり、少しだけ首を動かして、助手席のほうを見ようとした。動かせなかったらしく、すぐにやめた。


 助手席には何も載っていなかった。透が見た限りでは、鞄も、上着もない。


           ※


 サイレンは、まだ聞こえてこない。


 男の呼吸が変わったのは、それから二分ほど経ってからだった。


 それまで速かったものが、急に途切れた。


 代わりに、大きく口が開いた。首を反らして、肩ごと持ち上げるような吸い方だった。喉が鳴った。吸っているというより、体が空気をつかみに行っているように見えた。


 二度、三度と続いた。そのあいだが、少しずつ開いていく。


 男の唇の色が変わっていた。爪も同じ色をしていた。


 透は自分の内側に、あの静けさが立つのを感じた。


 やめてくれ、と思った。


 こんなところで、こんな相手に、器が空くのはおかしい。透はこの人が誰かも知らないし、頼まれてもいない。この人だって、預かり屋に言伝を頼むつもりで死ぬわけではないだろう。


 それでも、空いた。


 運ぶための場所が、勝手に空いた。


           ※


 男の唇が動いた。


 声は出ていない。空気が漏れる音だけだ。それでも透には届いた。


  「早瀬さんに」


 男の声だった。掠れていない。三十かそこらの、仕事の途中で誰かを呼び止めるときの声だ。


  「早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ」


 透は歯を食いしばった。


 入ってきた。今度は重かった。飲み下すのに二度かかった。喉の内側を無理に押し広げられて、それが胃のあたりまで落ちていく。


 息が乱れた。


 男の口が、もう一度大きく開いた。


 それが最後だった。開いたまま、閉じなかった。目は開いている。だがさっきまでとは違って、どこも見ていない。


 遠くで、サイレンが鳴り始めた。


           ※


 救急隊が来て、消防が来て、そのあとに警察が来た。


 ガードレールを切って、男を車から出すのに三十分かかった。透はその間、路肩に立っていた。誰かが渡してくれた反射ベストを着せられて、そのまま忘れられていた。


 現場は明るかった。作業灯が三方から当たっていて、事故車の潰れた鼻先の形がはっきり見える。田んぼの稲が、風のたびに一斉に鳴った。


 警察官に、同じことを三回訊かれた。


 通報の時刻。到着したときの状況。運転手と会話したかどうか。


 「話しました」


 「なんて言ってました」


 訊いたのは、四十くらいの私服の警察官だった。手帳を持つ手が、透の顔をまったく見ていない。


 透は少し黙った。


 「他に人は乗ってないと」


 「それだけですか」


 「……はい」


 嘘をついた。


 言っても伝わらないからだ。預かった言葉は、宛先の前でしか出ない。この警察官の前で口を開いても、ただの音にしかならない。


 わかってはいたが、嘘は嘘だった。


           ※


 男の身元は、その場ではわからなかった。


 財布がない。免許証もない。携帯電話は座席の下から出てきたが、画面が割れて電源が入らなかった。


 車は他県のナンバーだった。警察官が無線で照会をかけているのが聞こえた。名義がどうとか、リースがどうとか、断片だけが耳に入る。


 「盆前は、ようあります」


 若い警察官が、透に缶コーヒーを渡しながら言った。自販機まで走ってくれたらしい。


 「帰省で、慣れん道を走らはるので」


 「この人も、そうですかね」


 「わかりませんけど」


 透は缶を持ったまま、飲まなかった。


 喉の奥に、知らない男の声が据わっている。早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ。


 早瀬が誰かはわからない。この男が誰かも、まだわからない。


           ※


 解放されたのは、深夜の一時過ぎだった。


 便利堂に戻って、透は電気もつけずに事務所の畳に座った。


 頭の中で、日を数えた。


 七日。


 今日が一日目だ。


 誰にも頼まれていないし、請求書の出しようもない。それでも期限だけは、他の仕事とまったく同じ速さで走り出している。


 透は自分の膝を見た。


 人が死ぬところに立ち会うのは、仕事だと思ってきた。呼ばれて、行って、待って、預かる。そこには順番がある。


 頼まれてもいないのに人の死に居合わせたのは、これが二度目だった。


 一度目のことは、よく覚えていない。


           ※


 朝、電話で起こされた。


 「透、起きてたか」


 戸倉航(とくら わたる)だった。県道沿いで整備工場をやっている。小中高が同じで、いまも軽トラの面倒を見てもらっている。


 「起きてた」


 「嘘つけ、いま起きただろ。声でわかる」


 「……起きてた」


 「昨日の事故な。あの車、うちに来た」


 透は体を起こした。


 「レッカーで運んだんですかって、お前は言うと思うけど、うちの積車で運んだ。警察の指定でな。しばらく置いとくことになる」


 「見ていいか」


 「なんで」


 航が笑うのが聞こえた。


 「いや、いいけどよ。お前、ああいうの見て平気なタイプだったか」


 「平気じゃない」


 「だろうな」


 電話の向こうで、工具が金属に当たる音がした。


 「昼過ぎに来い。飯まだだろ。うちの母ちゃんが素麺茹でるって言ってる」


 「なんでわかるんだ」


 「お前が飯食ってるところ、この十年で三回しか見てない」

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