第11話 頼まれていない
カーブを抜けた先に、赤いものが見えた。
最初はテールランプだと思った。速度を落として近づくと、それが横を向いていることに気づいた。
軽のワゴンが、ガードレールに突っ込んでいた。
鼻先が潰れて、ボンネットが持ち上がっている。ガラスの破片が路面に散っていて、ヘッドライトの中で光っていた。ラジエーターから白い湯気が上がっている。事故から、そう時間は経っていない。
透は軽トラを路肩に寄せて、ハザードを出した。
降りると、稲の匂いがした。田んぼの風だ。それから、焦げたゴムの匂いが混ざった。
※
運転席に、男がいた。
五十代くらいだろうか。シートベルトはしている。ハンドルとシートのあいだに胸が挟まっていて、体がわずかに斜めになっていた。
「聞こえますか」
男の目が動いた。開いている。
透はスマートフォンを出して、一一九番を押した。
場所を訊かれて、少し詰まった。県道の、臥雲神社の下のカーブ。目印になるものが何もない。田んぼと、電柱と、切れかけた街灯だけだ。
「臥雲町の、旧造船所の一キロ手前です。北向きの車線」
通報を終えて、透は運転席の窓に手をかけた。ドアは開かなかった。
「動かさないほうがいいので、そのままで」
男は何か言おうとして、うまく声にならなかった。
「救急車、来ます。もうすぐです」
※
嘘ではなかった。だが、この町の救急は隣町から来る。夜なら十五分はかかる。
透は男のそばにしゃがんだ。
「便利屋か」
男が言った。
透の作業着の胸に、色褪せた刺繍がある。榊便利堂。
「そうです」
「……ええな」
何がいいのか、透にはわからなかった。
男の呼吸は速く、浅くなっていた。額に汗が浮いている。夜なのに、シャツの襟が濡れていた。
「他に人は、乗ってませんでしたか」
「おらん。ひとりや」
「どこから来ました」
男は答えなかった。その代わり、少しだけ首を動かして、助手席のほうを見ようとした。動かせなかったらしく、すぐにやめた。
助手席には何も載っていなかった。透が見た限りでは、鞄も、上着もない。
※
サイレンは、まだ聞こえてこない。
男の呼吸が変わったのは、それから二分ほど経ってからだった。
それまで速かったものが、急に途切れた。
代わりに、大きく口が開いた。首を反らして、肩ごと持ち上げるような吸い方だった。喉が鳴った。吸っているというより、体が空気をつかみに行っているように見えた。
二度、三度と続いた。そのあいだが、少しずつ開いていく。
男の唇の色が変わっていた。爪も同じ色をしていた。
透は自分の内側に、あの静けさが立つのを感じた。
やめてくれ、と思った。
こんなところで、こんな相手に、器が空くのはおかしい。透はこの人が誰かも知らないし、頼まれてもいない。この人だって、預かり屋に言伝を頼むつもりで死ぬわけではないだろう。
それでも、空いた。
運ぶための場所が、勝手に空いた。
※
男の唇が動いた。
声は出ていない。空気が漏れる音だけだ。それでも透には届いた。
「早瀬さんに」
男の声だった。掠れていない。三十かそこらの、仕事の途中で誰かを呼び止めるときの声だ。
「早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ」
透は歯を食いしばった。
入ってきた。今度は重かった。飲み下すのに二度かかった。喉の内側を無理に押し広げられて、それが胃のあたりまで落ちていく。
息が乱れた。
男の口が、もう一度大きく開いた。
それが最後だった。開いたまま、閉じなかった。目は開いている。だがさっきまでとは違って、どこも見ていない。
遠くで、サイレンが鳴り始めた。
※
救急隊が来て、消防が来て、そのあとに警察が来た。
ガードレールを切って、男を車から出すのに三十分かかった。透はその間、路肩に立っていた。誰かが渡してくれた反射ベストを着せられて、そのまま忘れられていた。
現場は明るかった。作業灯が三方から当たっていて、事故車の潰れた鼻先の形がはっきり見える。田んぼの稲が、風のたびに一斉に鳴った。
警察官に、同じことを三回訊かれた。
通報の時刻。到着したときの状況。運転手と会話したかどうか。
「話しました」
「なんて言ってました」
訊いたのは、四十くらいの私服の警察官だった。手帳を持つ手が、透の顔をまったく見ていない。
透は少し黙った。
「他に人は乗ってないと」
「それだけですか」
「……はい」
嘘をついた。
言っても伝わらないからだ。預かった言葉は、宛先の前でしか出ない。この警察官の前で口を開いても、ただの音にしかならない。
わかってはいたが、嘘は嘘だった。
※
男の身元は、その場ではわからなかった。
財布がない。免許証もない。携帯電話は座席の下から出てきたが、画面が割れて電源が入らなかった。
車は他県のナンバーだった。警察官が無線で照会をかけているのが聞こえた。名義がどうとか、リースがどうとか、断片だけが耳に入る。
「盆前は、ようあります」
若い警察官が、透に缶コーヒーを渡しながら言った。自販機まで走ってくれたらしい。
「帰省で、慣れん道を走らはるので」
「この人も、そうですかね」
「わかりませんけど」
透は缶を持ったまま、飲まなかった。
喉の奥に、知らない男の声が据わっている。早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ。
早瀬が誰かはわからない。この男が誰かも、まだわからない。
※
解放されたのは、深夜の一時過ぎだった。
便利堂に戻って、透は電気もつけずに事務所の畳に座った。
頭の中で、日を数えた。
七日。
今日が一日目だ。
誰にも頼まれていないし、請求書の出しようもない。それでも期限だけは、他の仕事とまったく同じ速さで走り出している。
透は自分の膝を見た。
人が死ぬところに立ち会うのは、仕事だと思ってきた。呼ばれて、行って、待って、預かる。そこには順番がある。
頼まれてもいないのに人の死に居合わせたのは、これが二度目だった。
一度目のことは、よく覚えていない。
※
朝、電話で起こされた。
「透、起きてたか」
戸倉航だった。県道沿いで整備工場をやっている。小中高が同じで、いまも軽トラの面倒を見てもらっている。
「起きてた」
「嘘つけ、いま起きただろ。声でわかる」
「……起きてた」
「昨日の事故な。あの車、うちに来た」
透は体を起こした。
「レッカーで運んだんですかって、お前は言うと思うけど、うちの積車で運んだ。警察の指定でな。しばらく置いとくことになる」
「見ていいか」
「なんで」
航が笑うのが聞こえた。
「いや、いいけどよ。お前、ああいうの見て平気なタイプだったか」
「平気じゃない」
「だろうな」
電話の向こうで、工具が金属に当たる音がした。
「昼過ぎに来い。飯まだだろ。うちの母ちゃんが素麺茹でるって言ってる」
「なんでわかるんだ」
「お前が飯食ってるところ、この十年で三回しか見てない」




