第12話 剥がした跡
戸倉自動車整備工場は、県道沿いにある古い建物だった。
シャッターが二つ並び、片方だけが開いている。中からエアツールの甲高い音が断続的に響いていた。
軽トラを停めると、奥から戸倉航が出てきた。ツナギの上半分を腰へ巻き、手には黒い油汚れが残っている。
「早いな」
「昼過ぎって言っただろ」
「十二時半は昼過ぎちゃうやろ。一時くらいに来ると思ってた」
航は透の様子を見て、眉を寄せた。
「お前、昨日から寝てへんやろ」
「寝た」
「何時間」
「三時間くらい」
「飯は?」
答える前に、建物の横にある引き戸が開いた。
「透くん、先に食べ。素麺あるから」
航の母親が顔を出している。
「いや、車を――」
「車は逃げへん。素麺は伸びる」
反論する余地がなかった。
航が横で笑う。
「諦めろ。こうなったら無理や」
※
工場の事務所には、小さなちゃぶ台が出ていた。
素麺のほかに、きゅうりの漬物と麦茶まで置かれている。透が箸を持つと、航の母親は向かいから身体を眺めた。
「透くん、また痩せた?」
「変わってないですよ」
「変わっとる。藤木さんとこの千鶴ちゃんも心配しとったで」
透は素麺をすすりかけて止まった。
「千鶴と話したんですか」
「商店街で会えば話くらいするよ。あの子、よう喋るし」
それだけで十分だった。この町では、知り合いがどこでつながっているかを考え始めるときりがない。
航が勝手に透の皿から漬物を取る。
「母ちゃん、俺の分は」
「あんたは朝から食べたやろ」
「昼飯は別やろ」
「仕事しなさい」
航は漬物だけ持って工場へ戻っていった。
透も素麺を食べ終え、麦茶を一杯飲んでから外へ出た。
※
事故車は工場の裏に置かれていた。
昨夜、ガードレールへ突っ込んでいた軽のワゴン車だ。昼間に見ると、車体の潰れ方がよくわかる。前部は大きく変形し、片側のヘッドライトはなくなっていた。
透が近づくと、航が先に釘を刺した。
「見るだけやぞ。警察から預かっとる車やから、勝手に開けたり中のもん触ったりすんなよ」
「わかってる」
「昨日事故見つけた本人が言うと、余計信用ないわ」
透は車から少し離れたところを歩いた。
何を探しているのか、自分でもまだはっきりしていない。
事故で亡くなった男は、早瀬という誰かに「鍵は戻した」と伝えようとした。ならば男の名前か、仕事先か、早瀬へつながる何かが車に残っているかもしれない。
航は隣に立って、車体を眺めた。
「かなり使い込んどるな」
「仕事の車?」
「その可能性は高いやろな」
荷室側の窓から中を見ると、床には何かを何度も積み下ろししたような擦れ跡が残っていた。運転席の座面も、乗り降りする側だけ生地が薄くなっている。
「配達とか?」
「かもしれんし、現場回っとったんかもしれん。そこまでは車だけじゃわからん」
航は断定せず、車体の後ろへ回った。
透もついていき、運転席側へ戻ったところで足を止めた。
「航」
「ん?」
「ここ、色違わないか」
白い車体の一部だけ、周囲と色味が違っていた。
運転席の後ろ側に、横長の四角が薄く残っている。汚れているというより、その部分だけ塗装の日焼けが少ない。
航が横から覗き込んだ。
「ああ。何か貼っとったな」
「何か?」
「マグネットの看板ちゃうか。仕事の車なら会社名とか電話番号とか貼るやつ」
航は車体には触れず、少し離れて輪郭を見る。
「ずっと貼ってた部分だけ日が当たらんから、外すとこういうふうに残ることがある」
透は四角い跡を見た。
そこには文字も絵もない。
以前は何かが書かれていたはずなのに、今は看板そのものがなくなっている。
「いつ剥がしたかわかる?」
「無茶言うな」
航が即答した。
「昨日今日じゃなさそう、くらいなら言えるけど、それ以上は知らん。塗装屋に持っていっても、元の文字までは出てこんぞ」
「そうか」
「何があったら当たりなんや」
「会社名」
「会社名?」
「この人がどこで働いてたのか知りたい」
航は透を見たが、理由までは訊かなかった。
「警察が身元わかったら、そのうち話は早いやろ」
「俺に教えてくれるとは限らない」
「そらそうや」
航はあっさり言って、工場の中へ戻ろうとした。
透はその場へ残り、スマートフォンで車体の跡を撮った。正面から一枚、少し斜めからもう一枚だけ残す。
何も書いていない四角を撮っているのが妙だった。
けれど今のところ、男が何をしていたのかを示すものはそれしかなかった。
※
事務所へ戻ると、航は別の車の部品を伝票へ書き込んでいた。
「そういや、お前が来る前に警察から電話あったぞ」
透が入口で止まる。
「昨日の人?」
「その車のことでな。午後にもう一回来るらしい。車内で確認したいもんがあるって」
「何を?」
「知らん。俺に言うわけないやろ」
航は伝票をめくった。
透は工場の裏を振り返った。
早瀬。
鍵。
社名を剥がした跡。
そこまで考えてから、透は机に置いていた麦茶を飲んだ。今あるものを並べただけでは、まだ何もつながらない。
「警察来るまでいていいか」
「好きにせえ。邪魔すんなよ」
「手伝うことある?」
「客にならある。オイル替えてけ」
「この前替えただろ」
「ほな邪魔すんな」
透は事務所の端にあった丸椅子へ座った。
しばらくして、表で車が停まる音がした。
航が伝票から顔を上げる。
「来たんちゃうか」
二人で外へ出ると、昨日現場にいた警察官が工場へ入ってきた。
警察官は航と短く話をしてから事故車へ向かい、運転席の脇でしゃがみ込んだ。透は離れたところから見ていたが、警察官が助手席側へ回ったところで動きが止まった。
シートの下へ手を入れ、何かを取り出す。
陽の光を受けて、小さな金属が光った。
隣にいた航が目を細めた。
「……鍵やな」
透は何も言わず、その手元を見ていた。




