第13話 番号のついた鍵
千鶴は事務所に入るなり、鞄を落とした。
「透さん、事故に居合わせたって本当ですか」
「誰から聞いた」
「じいちゃんです。町内会の回覧で回ってました」
回覧板に事故の話が載る町だった。透は麦茶を注いで、千鶴の前に置いた。
「怪我は」
「してない」
「そうじゃなくて」
千鶴は座らずに立ったままだった。
「……預かったんですよね」
透は麦茶をもう一つ注いだ。自分の分だ。それを飲んでから、うなずいた。
「頼まれてないのにな」
「そんなことあるんですか」
「あるらしい」
千鶴はようやく座った。膝を抱えて、しばらく黙っていた。
「それ、断れないんですか」
「断り方を知らない」
「習ってないってことですか」
「習ってない」
千鶴は納得のいかない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
※
午後、役場へ行った。
楓は昼休みを潰して、住民課の相談用の小部屋に透を入れてくれた。役場でこんな部屋を使うのは初めてだった。
「身元不明のご遺体は、うちの管轄ではありません」
楓は最初にそう言った。
「警察が身元確認をして、それでもわからなければ、最終的には行旅死亡人として扱われます。官報に公告が出て、そこから引き取り手を探す」
「時間はどれくらいかかりますか」
「早くて数週間。長ければ何か月も」
透は膝の上で手を組んだ。
七日では、まるで間に合わない。
「車のリース照会は」
「警察がやります。役場には来ません」
楓はボールペンをノックして、それからノックし返した。何かを言うか迷ったときにこの人がやる癖だと、透は最近気づいた。
「榊さん。訊いていいですか」
「はい」
「その方の言葉、期限が切れたらどうなるんですか」
透は答えた。
「腐ります」
「腐ると」
「俺の中に居座って、出ていかなくなります。代わりに、俺の言葉がひとつなくなる」
楓の手が止まった。
「なくなるって、どういう意味ですか」
「意味も、輪郭もわかるのに、その語だけ出てこなくなる。祖父もそうでした」
部屋の空調が、低い音で回っていた。
楓はしばらく何も言わなかった。それから、ノートを開いて、ボールペンのキャップを外した。
「わかりました。何を調べればいいですか」
「いいんですか」
「昼休みは十二時から一時までです」
楓は時計を見た。
「あと二十分あります」
※
わかっていることを並べた。
軽の箱バン、十四年落ちで十九万キロ。他県ナンバー。長い物を積んでいた形跡。運転席の後ろに、社名のマグネットシートを剥がした跡。剥がしてから何年か経っている。
男は五十代。財布も免許証もない。
預かった言葉は「早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ」。
そして、助手席のシートレールから出た古い真鍮の鍵。
透はスマートフォンの写真を出した。楓が画面を拡大する。
「タグ、これ何色だったんでしょうね」
「褪せてて、わかりません」
「文字は」
「三、だけです。その下は割れてます」
楓は写真を見つめたまま、少し首をかしげた。
「番号を振って管理してるものの鍵ですね。個人の家の鍵に、こういうタグは付けません」
※
便利堂に戻ると、千鶴の祖父の藤木さんが軽トラの荷台に腰かけていた。
「透くん、乾物の運搬、明日でええか」
「いいですよ」
「悪いのう」
千鶴が事務所から出てきて、透のスマートフォンを勝手に取った。
「じいちゃん、これ見て」
「なんや」
「鍵。番号のタグついてるやつ」
藤木さんは老眼鏡を胸ポケットから出して、画面を近づけたり離したりした。
それから、あっさり言った。
「これ、漁協の倉庫のやろ」
透は荷台の横に立った。
「わかるんですか」
「わかるも何も、うちも一つ借りとったからな。乾物干す網とか、道具入れとった」
藤木さんは画面の中の鍵の頭を指した。
「その穴に、番号札つけるんや。港の共同倉庫は八棟あってな、一番から八番まで。札の色が年度で変わっとった。緑の年もあったし、黄色い年もあった」
「じゃあ、この三は」
「三番倉庫やろ。まあ、いまのやないけどな」
「いまのじゃない、というのは」
藤木さんは老眼鏡を外した。
「その形の鍵は、もう使うとらん。いまはシャッターに電子錠が付いとる。前のやつは、十五年前の水で全部やられたんや」
※
水、という言葉に、透はわずかに引っかかった。
「水」
「高潮や。港が一遍浸かったことがある。倉庫の中まで水が入って、錠が錆びてどうにもならんようになった。そのあと総取っ替えや」
「それ、いつですか」
「十五年前の夏」
藤木さんは軽トラの荷台から降りて、腰を伸ばした。
「あの年はいろいろあったからな」
いろいろ、と言ったきり、藤木さんはそれ以上続けなかった。千鶴が「なにがあったん」と訊いたが、藤木さんは「昔の話や」と言って、乾物屋のほうへ歩いていった。
透はその背中を見ていた。
この町の年寄りは、みんな同じところで話をやめる。
※
夕方、透は港へ行った。
共同倉庫は、防波堤の内側に八棟並んでいる。トタンの壁が潮で錆びていて、下のほうが白く粉を吹いていた。
シャッターには、確かに電子錠が付いていた。テンキーの付いた四角い箱で、それだけが妙に新しい。
三番倉庫の前に立った。
シャッターは閉まっている。番号のプレートが、壁の上のほうに残っていた。「3」と読める。
透は喉の奥に意識を向けた。
何も動かない。
男の言葉は、胸の高さで冷たく据わったままだ。近づいたときの、あの引きつるような感覚はない。
早瀬という人間は、ここにはいない。
当たり前だ。倉庫の中に人はいない。
それでも透は、しばらくそこに立っていた。
あの男は、この倉庫の鍵を持っていた。十五年前に使えなくなった鍵を、十五年間、車の中に置いたままにしていた。
鍵は戻した、と言い残した男が。
※
港の事務所は閉まっていた。
シャッターの脇に、漁協の連絡先の紙が貼ってある。透はそれを写真に撮った。
明日、訊きに行く。訊くしかない。
祖父の掟その一は、訊くなではなく、調べろだ。だが調べる先が漁協の名簿なら、それは訊きに行くのとほとんど同じことになる。
海のほうから風が来た。潮の匂いが強い。
透は襟を立てて軽トラへ戻った。四日で足りるかどうかは、考えないことにした。




