第14話 三番の倉庫
漁協の事務所は、港の一番奥にあった。
午前八時を過ぎると、水揚げの喧騒はもう終わっている。発泡スチロールの箱が積まれる音が、建物の裏から断続的に聞こえた。
カウンターの向こうに、五十代の男が座っていた。作業着の上に事務用の腕カバーをしている。
「榊さんとこの」
「はい」
「宮下です。何か」
※
用件を伝えると、宮下正巳は困った顔をした。
「倉庫の借主な。台帳はあるけど、これはちょっと出せんわ」
「そうですよね」
「個人情報いうやつでな。組合員の分も、賃借人の分も」
悪意はない。ただ、決まりがあるから出せない。この町の役場でも寺でも、同じ顔に何度も会う。
透は引き下がろうとした。
「昔の話でもですか」
訊いたのは千鶴だった。透の後ろから、カウンターに肘をついている。
「昔って、どのくらい」
「十五年より前です」
正巳の手が、ボールペンの上で止まった。
「……なんでその年数が出てくるんや」
「鍵が十五年前ので止まってるからです」
千鶴は透のスマートフォンを勝手に取って、写真を見せた。
正巳は画面を見て、それから老眼鏡もかけずに目を細めた。
「これ、うちの旧い鍵やな」
「三番倉庫のです」
※
正巳はしばらく黙っていた。それから、カウンターの下から灰色のファイルを出した。
開かなかった。手を置いたままだ。
「言うとくけど、これは見せられん」
「はい」
「けどな、あの年の水で、書類は半分あかんようになった。棚の下の段が全部浸かってな。濡れて貼りついたやつは、そのまま捨てた」
正巳はファイルの表紙を指で叩いた。
「残っとるんは、水に浸からんかった上の段の分だけや。三番の古い契約書は、たぶんない」
「じゃあ」
「わしの頭の中にはある」
※
「三番はな、個人やない。会社が借りとった」
正巳はカウンターに肘をついた。
「造船所の下請けや。鉄工所やったかな。船の部品の、細かいやつ作っとった」
「名前は」
「そこは言えん」
正巳は即答した。
だが、その断り方には隙間があった。言えないと言うだけで、知らないとは言わなかった。
透は少し待ってから、言った。
「早瀬、という名前に心当たりはありますか」
正巳の顔が動いた。
驚いた顔ではない。むしろ、思い出した顔だった。眉が上がって、それから下がった。
「なんで、あんたがその名前を」
「事故で亡くなった方が、その名前を口にしていました」
嘘ではなかった。
正巳は返事をしなかった。
カウンターの上のファイルに手を置いて、そのまま動かない。指が表紙の角を二度、三度と撫でた。
外で、発泡スチロールの箱が積まれる音がした。
「……あんた、それ誰かに喋るか」
「喋りません」
「警察には」
「訊かれたら答えます。訊かれなければ言いません」
正巳は透の顔を見た。値踏みするというより、自分の中の何かを計っている目だった。
「わしはな、ここの職員や。組合員さんの情報を外に出したら、それで終いや。四十年勤めてきて、そんなことで終わりたない」
「わかります」
「わかっとらん。あんた、ええ加減なこと言いなさんな」
正巳の声が少しだけ強くなった。透は黙った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、正巳はファイルの角を撫でるのをやめた。
「……もう、潰れた会社や」
自分に言い聞かせるような言い方だった。
「十五年前に畳んどる。組合員でもない。契約書も残っとらん。本人も町におらん」
正巳は指を折るように、一つずつ数え上げた。数えるたびに、出せない理由がひとつずつ減っていく。透にはそう聞こえた。
「言うても、誰の迷惑にもならんわな」
「はい」
「なるようやったら、言わんかった」
念を押すように、正巳はもう一度言った。
「なるようやったら、言わんかったからな」
※
「早瀬鉄工や」
正巳はそう言って、ファイルを棚に戻した。
「三番を借りとったんは、そこや。二十年以上前から借りとった」
「いまもあるんですか」
「潰れた」
正巳は事務所の窓の外を見た。防波堤の向こうに、旧造船所の建物の屋根が見える。錆びた青い屋根だ。
「あの年に、いくつも潰れた。造船所が仕事を止めたら、下請けは一年ももたん。早瀬さんとこは、その中でも早いほうやった」
「早瀬さんというのは」
「社長や。早瀬昭三さん」
「その方は、いまどちらに」
「知らん」
正巳は腕カバーを外した。
「町を出たとは聞いた。どこへ行ったかまでは聞いとらん」
※
千鶴が事務所を出た途端にスマートフォンを出した。
「早瀬鉄工、検索します」
「出るのか」
「出ますよ、たぶん。会社って登記とか残るんで」
千鶴は歩きながら画面を叩いた。港の駐車場を横切って、軽トラの助手席に乗り込んでから、顔を上げた。
「出ました。……けど、これだけです」
画面には、地方の産業紹介のような古いページが表示されていた。文字が小さく、写真は粗い。
早瀬鉄工所 臥雲町港町三ノ二 従業員七名
「更新、十六年前で止まってます」
「他には」
「ないです。ホームページもないし、口コミも何も。会社が潰れると、こんなに何も残らないんですね」
千鶴は画面を消した。
「なんか、こわ」
※
便利堂に戻って、透は帳面を開いた。
祖父の控え帳を、四十年分ひっくり返した。
早瀬という字を、四十年分の頁で探した。
どこにもなかった。祖父はこの人と関わっていない。
従業員は七名だった。
事故で死んだ男が、その七人のうちの一人だとしたら、名前がわかる可能性がある。会社の登記が残っているなら、役員は辿れる。だが従業員は登記に載らない。
透は電話を取って、番号を押しかけて、やめた。
楓に頼めることと、頼んではいけないことの線がわからなかった。役場の人間に、私的な調べ物をさせている。それはもう、掟の話ではなく、迷惑の話だった。
※
夜、電話が鳴った。
航だった。
「透。事故車の件で、署の人が来た」
「身元、わかったか」
「わからん。けど、車の名義は出た」
航の声の後ろで、テレビの音がしていた。
「リース会社の車だ。借りてたのは個人。名前は聞いてない。警察は聞いてるだろうけど、俺には言わん」
「そうか」
「あと、これは俺が見た話な」
航が少し声を落とした。
「車内から出た荷物、警察が持っていったんだけどよ。段ボールが一箱あった。中身、工具じゃない」
「何だ」
「位牌だ」
透は受話器を持ち直した。
「位牌が、三つ」
※
電話を切ったあと、透は事務所の畳に座っていた。
位牌を三つ、車に積んでいた男。
使えない倉庫の鍵を、十五年間持っていた男。
早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ。
三日で、この人が誰なのかを突き止めなければならない。名前もわからない相手に、透は少し腹が立っていた。腹を立てる筋合いではないことも、わかっていた。




