第8話 ごめんね
六〇一号室の前に、男が立っていた。
六十くらいの、背広の上着だけ脱いだ格好の人だ。顔立ちにトキの面影がある。次男の康夫だろうと透は思った。横浜から来ているほうだ。
「どちらさんですか」
「便利屋の榊です。お母さんに呼ばれて」
康夫は透の作業着を上から下まで見た。悪意のある目つきではない。ただ、状況が飲み込めていない顔だった。
「便利屋さんが、こんな時間に」
「すみません。出直します」
「いや……いいです。母が呼んだんなら」
病室から声がした。トキだった。
「康夫。あんた、下でお茶でも飲んでらっしゃい」
弱っているのに、通る声だった。
康夫は少しのあいだ立っていたが、結局は廊下を歩いていった。透に軽く会釈をして、それから自販機のほうへ曲がっていく。
※
「あの子は素直なんです」
トキはそう言って、枕の上で少し笑った。
昨日より、明らかに悪かった。声が続かない。三つ言うと、一つ息を継ぐ。
「立花さん」
「まだ言いません」
「訊いてません」
「顔に書いてあります」
透は丸椅子に座った。今日は水差しに手を出さなかった。手を出す気になれなかった。
窓の外は暗い。診療所の裏の畑が、夜になると何も見えなくなる。
「あんた、朝までおるつもりですか」
「いてもいいですか」
「勝手にしなさい」
トキは目を閉じた。それから、閉じたまま言った。
「うちの人のときはね、お爺さんが三日おりました」
「三日ですか」
「三日目の晩に、うちの人が言うたんです。あの人はそれを受け取って、そのまま台所でお茶飲んで、帰らはった」
「その日のうちに、届けたんですか」
「いいえ」
トキの喉が、少し鳴った。
「二日、待たはりました。わたしが、受け取れる顔になるまで」
※
夜十時に、千鶴を帰した。
「あたし、残りますよ」
「明日、乾物屋の配達だろう」
「そうですけど」
千鶴は待合の椅子から立ち上がって、それから、少し口ごもった。
「透さんは、平気なんですか」
「何が」
「人が死ぬところに、何回も」
透は答えを探した。平気ではない。だが慣れてはいる。慣れているという事実のほうが、たまに自分で嫌になる。
「……仕事だから」
「それ、答えになってないです」
「そうだな」
千鶴は透をじっと見て、それから鞄を持ち直した。
「じゃあ、帰ります。明日、朝行きます」
「いい。寝てろ」
「行きます」
※
深夜になって、康夫が仮眠室で横になった。
看護師の夜勤は川辺ではなかった。若い人で、透のことを「町内会の方ですか」と一度だけ訊いて、それ以上は訊かなかった。
透は丸椅子に座ったまま、トキの呼吸を聞いていた。
この座り方にも、そろそろ慣れてきた。膝を崩さず、時計を見ず、相手が何か言い出すまで動かない。
預かるいうんは、待つことや。祖父の言い方だ。
夜の病室は、思っているより音がある。空調の唸り、点滴のスタンドが揺れる音、廊下を通るワゴンの車輪。遠くの部屋で誰かがナースコールを押して、若い看護師の足音が走っていく。
透はその音を全部聞きながら、自分の手を見ていた。
何度目だろうと数えかけて、やめた。数えたことが何度かある。そのたびに、数えた自分が少し嫌になる。
人が死ぬ場所に座るのが、透にとっては仕事の一部になっている。慣れていないと言えば嘘になる。慣れたと言えば、たぶんもっと嘘になる。
千鶴に訊かれたことを思い出した。透さんは、平気なんですか。
平気ではない。ただ、平気ではない自分をどこに置いておけばいいのかを、二十七年かけてまだ見つけていないだけだ。
三時を過ぎたころ、トキが目を開けた。
「榊さん」
「はい」
「うちの人はね、最後まで謝らん人でした」
透は身を乗り出した。
「一遍も謝らんかった。それでよかったんです。あの人はそういう人やったから」
「立花さん」
「わたしは、謝る」
トキは天井を見ていた。
「決めとったんです。ずっと前から。それだけは言うて死のうと」
※
明け方の四時半だった。
トキの手が、掛け布団の上に出ていた。
透はその手をどけようとして、触れて、やめた。冷たかった。指先から手首のあたりまで、血の気が引いている。爪の色が薄い紫になっていた。
呼吸が浅くなっていた。喉ではなく、肩のあたりで息をしている。
透は膝をついた。
自分の中で、あの静けさが立ち上がるのがわかった。何度経験しても、これだけは慣れない。
トキの唇が動いた。
息が唇を通っただけだった。それなのに、透にははっきり聞こえた。耳ではないところで聞いた、というほうが近い。
「ごめんね」
トキの声だ。掠れていない。台所から奥の部屋へ声を通すときの張り方をしていた。
「ごめんね。あんたのこと、よう見てやれんかった」
入ってきた。
透は口を閉じて、待った。
今度は冷たくなかった。ぬるい水を含んだときのように、それはゆっくり下りていって、胸の少し上で止まった。九十年ぶんの声だった。据わってしまえば、もう自分の意思では出せない。
そのあと、トキは二度、口を開けた。
声にならない口の開け方だった。何かを言おうとしているのではなく、体が勝手にやっていることだと、透にはわかった。二度目のあと、口は半分開いたままになった。
それきり動かなかった。
透は膝をついたまま、そこにいた。
宛先は、言われなかった。
※
看護師が仮眠室へ走り、康夫が来た。医師が来て、時刻を告げた。
透は廊下に出た。
窓の外が、少しずつ白んでいく。診療所の裏の畑の形が、暗がりの中から浮かんでくる。夏の朝は早い。
頭の中で、日を数えた。
七日。
※
康夫が廊下に出てきたのは、それからしばらく経ってからだった。
目が赤い。だが取り乱してはいなかった。六十年生きて、親を見送る側に回った人間の顔をしていた。
「榊さん、でしたか」
「はい」
「最後、母のそばにいてくださって」
康夫は頭を下げた。透は下げ返した。
「あの」
康夫が言った。
「母は、何か言いましたか」
透の喉の奥で、トキの声が据わっている。ごめんね。あんたのこと、よう見てやれんかった。
この人が宛先なら、いま口を開けば、勝手に出る。
だが出なかった。
透は口を開いたまま、一拍待った。喉は動かない。何の反応もない。近づいてすらいないということだ。
康夫は宛先ではない。
「……いえ」
透はそう答えた。
「静かでした」
嘘ではなかった。だが、本当のことでもなかった。
康夫はうなずいた。それから、廊下の窓のほうを見た。
「母は、僕らには何も言わん人でした」
透は黙っていた。
「横浜に出るときも、結婚するときも、好きにしなさいとしか。あとから思えば、あれで正しかったんでしょうけど」
康夫は自分の手のひらを見た。厚くて、乾いた手だった。
「最後くらい、何か言うかと思ってました。まあ、そういう人やないですね」
そう言って、病室へ戻っていった。
透はその背中を見送った。喉の奥のものは、動かないままだった。
※
診療所を出ると、千鶴が正面の階段に座っていた。
空はもう白んでいた。
「なんでいるんだ」
「寝れなかったので」
「帰れって言っただろう」
「行きますって言いました」
千鶴は立ち上がって、透の顔をひととおり見た。それから、何も訊かずに歩き出した。
二人で軽トラまで歩いた。
商店街のアーケードの照明は、朝になると消える。切れている三つに一つも、点いている残りも、同じように消えている。
「透さん」
「うん」
「宛先、どっちでした」
「次男さんじゃない」
「え」
「さっき前に立った。何も起きなかった」
千鶴が息を吸う音がした。
「じゃあ」
「園田さんだ。たぶん」
残り六日と、あと少し。




