↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
預かり屋 榊便利堂 -最期の一言を、七日以内に届ける-  作者: MIYA
案件02「宛先が二人いる」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/47

第8話 ごめんね

六〇一号室の前に、男が立っていた。


 六十くらいの、背広の上着だけ脱いだ格好の人だ。顔立ちにトキの面影がある。次男の康夫(やすお)だろうと透は思った。横浜から来ているほうだ。


 「どちらさんですか」


 「便利屋の榊です。お母さんに呼ばれて」


 康夫は透の作業着を上から下まで見た。悪意のある目つきではない。ただ、状況が飲み込めていない顔だった。


 「便利屋さんが、こんな時間に」


 「すみません。出直します」


 「いや……いいです。母が呼んだんなら」


 病室から声がした。トキだった。


 「康夫。あんた、下でお茶でも飲んでらっしゃい」


 弱っているのに、通る声だった。


 康夫は少しのあいだ立っていたが、結局は廊下を歩いていった。透に軽く会釈をして、それから自販機のほうへ曲がっていく。


           ※


 「あの子は素直なんです」


 トキはそう言って、枕の上で少し笑った。


 昨日より、明らかに悪かった。声が続かない。三つ言うと、一つ息を継ぐ。


 「立花さん」


 「まだ言いません」


 「訊いてません」


 「顔に書いてあります」


 透は丸椅子に座った。今日は水差しに手を出さなかった。手を出す気になれなかった。


 窓の外は暗い。診療所の裏の畑が、夜になると何も見えなくなる。


 「あんた、朝までおるつもりですか」


 「いてもいいですか」


 「勝手にしなさい」


 トキは目を閉じた。それから、閉じたまま言った。


 「うちの人のときはね、お爺さんが三日おりました」


 「三日ですか」


 「三日目の晩に、うちの人が言うたんです。あの人はそれを受け取って、そのまま台所でお茶飲んで、帰らはった」


 「その日のうちに、届けたんですか」


 「いいえ」


 トキの喉が、少し鳴った。


 「二日、待たはりました。わたしが、受け取れる顔になるまで」


           ※


 夜十時に、千鶴を帰した。


 「あたし、残りますよ」


 「明日、乾物屋の配達だろう」


 「そうですけど」


 千鶴は待合の椅子から立ち上がって、それから、少し口ごもった。


 「透さんは、平気なんですか」


 「何が」


 「人が死ぬところに、何回も」


 透は答えを探した。平気ではない。だが慣れてはいる。慣れているという事実のほうが、たまに自分で嫌になる。


 「……仕事だから」


 「それ、答えになってないです」


 「そうだな」


 千鶴は透をじっと見て、それから鞄を持ち直した。


 「じゃあ、帰ります。明日、朝行きます」


 「いい。寝てろ」


 「行きます」


           ※


 深夜になって、康夫が仮眠室で横になった。


 看護師の夜勤は川辺ではなかった。若い人で、透のことを「町内会の方ですか」と一度だけ訊いて、それ以上は訊かなかった。


 透は丸椅子に座ったまま、トキの呼吸を聞いていた。


 この座り方にも、そろそろ慣れてきた。膝を崩さず、時計を見ず、相手が何か言い出すまで動かない。


 預かるいうんは、待つことや。祖父の言い方だ。


 夜の病室は、思っているより音がある。空調の唸り、点滴のスタンドが揺れる音、廊下を通るワゴンの車輪。遠くの部屋で誰かがナースコールを押して、若い看護師の足音が走っていく。


 透はその音を全部聞きながら、自分の手を見ていた。


 何度目だろうと数えかけて、やめた。数えたことが何度かある。そのたびに、数えた自分が少し嫌になる。


 人が死ぬ場所に座るのが、透にとっては仕事の一部になっている。慣れていないと言えば嘘になる。慣れたと言えば、たぶんもっと嘘になる。


 千鶴に訊かれたことを思い出した。透さんは、平気なんですか。


 平気ではない。ただ、平気ではない自分をどこに置いておけばいいのかを、二十七年かけてまだ見つけていないだけだ。


 三時を過ぎたころ、トキが目を開けた。


 「榊さん」


 「はい」


 「うちの人はね、最後まで謝らん人でした」


 透は身を乗り出した。


 「一遍も謝らんかった。それでよかったんです。あの人はそういう人やったから」


 「立花さん」


 「わたしは、謝る」


 トキは天井を見ていた。


 「決めとったんです。ずっと前から。それだけは言うて死のうと」


           ※


 明け方の四時半だった。


 トキの手が、掛け布団の上に出ていた。


 透はその手をどけようとして、触れて、やめた。冷たかった。指先から手首のあたりまで、血の気が引いている。爪の色が薄い紫になっていた。


 呼吸が浅くなっていた。喉ではなく、肩のあたりで息をしている。


 透は膝をついた。


 自分の中で、あの静けさが立ち上がるのがわかった。何度経験しても、これだけは慣れない。


 トキの唇が動いた。


 息が唇を通っただけだった。それなのに、透にははっきり聞こえた。耳ではないところで聞いた、というほうが近い。


  「ごめんね」


 トキの声だ。掠れていない。台所から奥の部屋へ声を通すときの張り方をしていた。


  「ごめんね。あんたのこと、よう見てやれんかった」


 入ってきた。


 透は口を閉じて、待った。


 今度は冷たくなかった。ぬるい水を含んだときのように、それはゆっくり下りていって、胸の少し上で止まった。九十年ぶんの声だった。据わってしまえば、もう自分の意思では出せない。


 そのあと、トキは二度、口を開けた。


 声にならない口の開け方だった。何かを言おうとしているのではなく、体が勝手にやっていることだと、透にはわかった。二度目のあと、口は半分開いたままになった。


 それきり動かなかった。


 透は膝をついたまま、そこにいた。


 宛先は、言われなかった。


           ※


 看護師が仮眠室へ走り、康夫が来た。医師が来て、時刻を告げた。


 透は廊下に出た。


 窓の外が、少しずつ白んでいく。診療所の裏の畑の形が、暗がりの中から浮かんでくる。夏の朝は早い。


 頭の中で、日を数えた。


 七日。


           ※


 康夫が廊下に出てきたのは、それからしばらく経ってからだった。


 目が赤い。だが取り乱してはいなかった。六十年生きて、親を見送る側に回った人間の顔をしていた。


 「榊さん、でしたか」


 「はい」


 「最後、母のそばにいてくださって」


 康夫は頭を下げた。透は下げ返した。


 「あの」


 康夫が言った。


 「母は、何か言いましたか」


 透の喉の奥で、トキの声が据わっている。ごめんね。あんたのこと、よう見てやれんかった。


 この人が宛先なら、いま口を開けば、勝手に出る。


 だが出なかった。


 透は口を開いたまま、一拍待った。喉は動かない。何の反応もない。近づいてすらいないということだ。


 康夫は宛先ではない。


 「……いえ」


 透はそう答えた。


 「静かでした」


 嘘ではなかった。だが、本当のことでもなかった。


 康夫はうなずいた。それから、廊下の窓のほうを見た。


 「母は、僕らには何も言わん人でした」


 透は黙っていた。


 「横浜に出るときも、結婚するときも、好きにしなさいとしか。あとから思えば、あれで正しかったんでしょうけど」


 康夫は自分の手のひらを見た。厚くて、乾いた手だった。


 「最後くらい、何か言うかと思ってました。まあ、そういう人やないですね」


 そう言って、病室へ戻っていった。


 透はその背中を見送った。喉の奥のものは、動かないままだった。


           ※


 診療所を出ると、千鶴が正面の階段に座っていた。


 空はもう白んでいた。


 「なんでいるんだ」


 「寝れなかったので」


 「帰れって言っただろう」


 「行きますって言いました」


 千鶴は立ち上がって、透の顔をひととおり見た。それから、何も訊かずに歩き出した。


 二人で軽トラまで歩いた。


 商店街のアーケードの照明は、朝になると消える。切れている三つに一つも、点いている残りも、同じように消えている。


 「透さん」


 「うん」


 「宛先、どっちでした」


 「次男さんじゃない」


 「え」


 「さっき前に立った。何も起きなかった」


 千鶴が息を吸う音がした。


 「じゃあ」


 「園田さんだ。たぶん」


 残り六日と、あと少し。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。