第7話 もう一人
翌日も、立花トキは起きていた。
「先生は二日と言うたそうですね」
トキはそう言って、少し愉快そうな顔をした。
「三日目です、今日は」
「そうですね」
「医者いうのは、当てにならんもんです」
透は丸椅子に座って、水差しの水を替えた。頼まれたわけではない。手が空いていると、こういうことをしてしまう。
「立花さん」
「はい」
「あの子、というのは」
「言いません」
早かった。
「言うたら、あんた、先に会いに行くでしょう」
「行きません」
「行きます。あんたのお爺さんも行った」
透は水差しを置いた。
「祖父が、ですか」
「二十二年前です。うちの人が死んだとき」
トキは窓のほうを向いた。診療所の裏の畑に、誰かが水をやっている。
「うちの人の言葉を、わたしが受け取りました。あのときお爺さんは、宛先がわたしやと先に知っとった。知っとって、うちに何度も足を運びました。世間話をしに来る顔をして」
「……なんのためにですか」
「受け取れる形にしとくためやと思います」
トキの指が、掛け布団の端をなぞった。
「言葉いうのは、届いたら終わりやない。届いたあとに、受け取った者が持って生きるんです。お爺さんはそれを知っとった。やさしい人でした」
「じゃあ、先に知っていたほうがいいんじゃないですか」
「わたしは、いやなんです」
トキははっきり言った。
「準備をされたくない。ふいに来てほしいんです。うちの人のときみたいに、構える時間があると、こっちが言葉を選んでしまうから」
※
廊下に出ると、千鶴が待合の椅子で貧乏ゆすりをしていた。
「あの、透さん」
小声だった。
「さっき、女の人が来ました。六〇一に入っていって、五分くらいで出てきて」
「家族?」
「たぶん違います。受付で名前書くとき、続柄のところで手が止まってたので」
千鶴は自分のスマホを見た。何かを検索していたらしい。
「園田さんって人でした。園田佐知子さん。町の南のほうで美容室やってる人です」
「なんで名前まで見えたんだ」
「あたし、受付の前で靴紐結んでました」
「結び直してたな」
「三回結びました」
「褒めてないぞ」
※
その日の夕方、透は町の南へ軽トラを走らせた。
美容室「そのだ」は、旧道沿いの小さな店だった。ガラス戸に色褪せたポスターが貼ってある。カットの料金が二千八百円と書いてあった。
透は車を降りて、しばらく立っていた。
入って何を訊くのか。訊けば手札を晒す。だが訊かなければ何もわからない。祖父の掟は、いつもこの手前で透を立ち止まらせる。
結局、髪を切ることにした。
「あら、榊さんとこの」
園田佐知子は五十代半ばだった。落ち着いた声の人で、鏡越しに透を見た。
「便利屋さんが、どういう風の吹き回し?」
「伸びたので」
「ずいぶん伸びてるわね。半年は切ってないでしょう」
「たぶん」
「たぶんじゃないの」
佐知子は笑って、鋏を入れ始めた。
世間話が続いた。天気、商店街のシャッター、去年の台風。佐知子はよく喋る人ではなかったが、間の取り方がうまかった。
三十分ほど経ったころ、佐知子のほうから言った。
「立花さんとこ、大変みたいね」
透は鏡の中の佐知子を見た。
「お見舞いに行かれてるって聞きました」
「誰から?」
「うちのバイトが、診療所で見たと」
佐知子の鋏が、一度だけ止まった。
「昔、お世話になったのよ」
それだけだった。どういうお世話なのかも、いつのことなのかも言わなかった。
透も訊かなかった。
※
便利堂に戻ると、千鶴の祖父が来ていた。
乾物屋の藤木さんは八十二歳で、月に一度、店の在庫を軽トラで運ぶのを透に頼んでいる。千鶴が入れた麦茶を飲みながら、事務所の上がり框に座っていた。
「園田の佐知子さんな」
千鶴が先に話していたらしい。この子の口の軽さは、たまに役に立つ。
「あの人、立花さんとこにおったんや」
「おった、というのは」
「住んどったんよ。子どものころ」
藤木さんは湯呑みを両手で包んだ。
「昔はな、そういうんがあったんや。親が食えんようになったり、死んだりしたら、余裕のある家が子を預かる。学校まで行かせて、そのまま働きに出す」
「養女ですか」
「戸籍は入れとらんはずや。入れる家もあったけど、立花さんとこは入れんかった。あそこは町議の家やったから、いろいろあったんやろ」
透は事務所の畳を見ていた。
預かる。
この町では、その言葉が別の意味でも使われていたということだ。
「佐知子さんは、何歳から何歳まで」
「小学校の途中から、高校出るまでやったかな。十年はおったで」
※
夜、梶が来た。
いつもどおり戸を叩かず入ってきて、いつもどおり透の家の湯呑みを持っている。
「あんた、髪切ったんか」
「切りました」
「園田で切ったやろ」
「なんでわかるんですか」
「その切り方はあそこや」
梶は透の後頭部のあたりを指した。
「で、宛先は二人か」
透は黙った。
「次男さんと、佐知子さんですね。トキさんが『あの子』と呼ぶなら、どっちでもおかしくない」
「そうか」
梶は麦茶をひと口飲んで、湯呑みを畳に置いた。音がした。
「あんた、誤配のことは知っとるな」
「宛先の前でしか出ないのに、間違えようがあるんですか」
「あるんや」
梶は湯呑みを持ち上げて、また置いた。
「宛先やのうても、近い人間の前に立つと、喉が動くことがあるやろ」
透はうなずいた。祖父が「手が届く」と呼んでいたやつだ。
「あれがな、たまに漏れる。全部は出んけど、切れ端が出てまう。息の一つ分くらいの、意味にならん切れ端が」
「それが」
「漏れたぶんは、その人に居着く。届いたわけやないから、あんたの中の言葉も減らん。期限だけは進む」
梶の声が低くなった。
「居着かれた人はな、一生、意味のわからん切れ端を頭ん中で繰り返すことになる。誰の言葉かもわからんまま」
梶の指が、湯呑みの縁をなぞった。
「わしはな、それを一遍見た。爺さんやない。よその土地の話や」
「どうなったんですか」
「知らんほうがええ」
千鶴が麦茶のグラスを持ったまま、動かなくなっていた。
「梶さん、それ、脅かしてます?」
千鶴の声が少し尖っていた。
「脅かしとる」
梶は千鶴を見た。
「脅かしとかんと、こいつは平気で当てずっぽうで届けよるからな」
「しません」
「しよる。爺さんもそうやった」
※
梶が帰ったあと、透は控え帳を開いた。
二十二年前の一行を、もう一度見た。
立花トキ → 立花源三
祖父はこのとき、宛先を先に知っていた。知っていて、何度もトキの家に通った。世間話をしに来る顔をして。
受け取れる形にしておくために。
透は自分の膝を見た。同じことが、自分にできる気がしない。誰が宛先かもわからないまま、二人の候補の顔だけが頭にある。
トキは、ふいに来てほしいと言った。
だが届ける相手は、ふいに来られる側だ。
電話が鳴った。診療所からだった。




