第6話 予約
立花トキが便利堂を訪ねてきたのは、半年前の冬だった。
杖をついた小柄な人影が商店街を歩いてくるのを事務所の窓から見つけ、透は作業台を離れて外へ出た。九十歳になるトキが、町の東側にある自宅から一人で歩いてくるとは思っていなかった。
「立花さん。電話くれたら迎えに行ったのに」
「歩いて来られるうちは歩きます」
「帰りは送りますよ。軽トラですけど」
「帰るときに考えます」
杖は使っているものの、背筋は伸びていた。亡くなった夫は町議を務めており、トキはいまも古い大きな家で一人暮らしをしている。
事務所へ上がると、トキは座布団の上へ正座した。透が茶を出して戻っても足を崩す様子がなく、湯呑みを両手で包んでから本題を切り出した。
「榊さん。予約をしに来ました」
「予約ですか」
「言伝の予約です。わたしの番が来たら、お願いしたいんです」
透は向かいへ腰を下ろした。
「立花さん、まだ元気でしょう」
「元気なうちに頼むんです。倒れてからでは、あんたを呼んでくれる人がおらんかもしれませんから」
「ご家族がいるでしょう」
「あの子らは、こういう話を信じません」
トキはさらりと言った。
預かり屋が受け取れるのは、死の間際に残された言葉だけだ。今ここで何かを預かっておくことはできないが、そのときになったら呼んでほしいという約束なら受けられる。
透は机の引き出しから控え用の紙を取り出した。
「わかりました。診療所でも、ご自宅でも、連絡が入れば伺います」
「わたしが連絡できんようになったら?」
「その場合は、ご家族か病院から」
「その人らが榊さんを呼ばんかったら?」
透は紙に日付を書こうとしていた手を止めた。
トキが少し笑う。
「だから、元気なうちに来たんです」
「なるほど」
「納得するの遅いですね」
「初めてなので。こういう予約」
「なら、わたしが一番ですね」
どこか満足そうに言って、トキは袂から白い封筒を取り出した。机へ置かれた封筒には厚みがあり、透は中を見る前に押し返した。
「これは受け取れません」
「まだ金額も見てへんでしょう」
「見なくても多いです」
「仕事を頼むんやから、お礼は要るでしょう」
「預かり屋の方は値段を決めてないんです。祖父は線香代って呼んでました」
「その決まりを作ったのも、お爺さんでしょう」
「そうですけど、今日はまだ何も預かってませんから」
トキは封筒と透を交互に見たあと、ようやく袂へ戻した。
「頑固やねえ」
「よく言われます」
「お爺さんも同じこと言うてました」
「爺ちゃんも?」
「ええ。困ったときの顔まで似てきましたよ」
トキは茶を一口飲んだ。祖父とどんなやり取りがあったのか、透は聞かなかった。
帰り際、玄関で靴を履き終えたトキが杖を手に取る。
「誰に言うかは、そのときに決めます」
「まだ決めてないんですか」
「九十になったら、何でも決まっとると思います?」
「いや」
「まだ決めることくらいありますよ」
トキは結局、帰りも歩いていった。
※
半年後、診療所の川辺志乃から電話が入った。
医師の見立てでは長くないらしいが、本人は朝から新聞を読み、テレビの相撲に文句を言っているという。半年前の約束も覚えており、透を呼ぶよう川辺へ頼んだらしい。
翌朝、透は千鶴と診療所へ向かった。
病棟の廊下を歩いていると、千鶴が壁の部屋番号を見ながら首を傾げた。
「六〇一号室って、この診療所そんなに部屋ありましたっけ」
「一階の六号室だ。昔から六〇一って呼んでる」
「なんでですか」
「知らん」
「そこは知らないんですね」
詰所から川辺が顔を出した。
「朝から元気ね、二人とも」
そのまま透の作業着へ視線を移し、袖口を指差す。
「榊くん、それ破れてるじゃない」
「引っかけました」
「いつ?」
「先週」
「まだ直してないの?」
千鶴が横から口を挟んだ。
「透さん、針と糸が家のどこにあるかも知らないと思いますよ」
「ある」
「どこです?」
透は少し考えた。
「台所のどっか」
「ほら」
「何が、ほら、だ」
川辺は呆れたように二人を見てから、六〇一号室の方へ顎を向けた。
「立花さん、待ってるわよ」
病室へ入ると、トキはベッドを起こして新聞を読んでいた。老眼鏡の奥から透を確認すると、紙面をきれいに畳んで脇へ置く。
「来ましたね」
「呼ばれたので」
「早いこと来なさい言うたんです。あの看護婦さんに」
「川辺さん、看護師です」
「本人にも言われました」
トキは老眼鏡を外し、ケースへしまった。
半年前より痩せている。それでも手の動きに迷いはなく、枕元の物は自分で取った。
「約束、覚えてますか」
「覚えてます」
「誰に伝えるか、決めました」
透は続きを待った。
トキは窓の外を一度見てから、静かに言った。
「あの子です」
それ以上は続かなかった。
名前を訊くな。
祖父から教わった掟がある。宛先がわからなければ、自分で調べる。
透が黙っていると、トキの方から口を開いた。
「あんた、名前がわかったら先に会いに行くでしょう」
「必要なら」
「それはやめてください」
「どうしてですか」
「まだ、わたしが喋れますから」
トキはまっすぐ透を見た。
「わたしが言うまでは、その人に何も聞かんといてください」
「わかりました」
「約束ですよ」
「はい」
その返事を聞くと、トキはまた新聞へ手を伸ばした。これ以上話すことはないらしい。
透が立ち上がると、背中へ声が届いた。
「榊さん」
「はい」
「来てくれて、ありがとう」
透は小さく頭を下げて病室を出た。
廊下では千鶴が長椅子に座って待っていた。
「どうでした?」
「まだ預かってない」
「宛先は?」
「『あの子』だって」
「それだけ?」
「それだけ」
千鶴は病室の扉を見たが、透が歩き出すと何も訊かずについてきた。
詰所へ寄り、透は川辺に面会の状況だけ確認した。
「息子さん二人は来てるわよ。交代で泊まりながらね。お孫さんも何人か顔を出してる」
「家族以外は?」
川辺は面会記録へ目を落とした。
「一人いるわね。何度か来てる人が」
「そうですか」
透は名前を訊かず、礼を言って詰所を離れた。
※
便利堂へ戻ると、千鶴は午前中に届いた伝票を事務所の床へ広げた。
「『あの子』って、息子さんじゃないんですかね」
「かもしれん」
「でも、息子さんなら普通に名前言いません?」
「それもわからん」
千鶴は考えながら伝票を仕分けていたが、机の端に積まれた白い封筒を見つけると、すぐに話題を変えた。
「透さん。こっちの方が問題です」
「何が」
「請求書」
草刈りや寺の仕事で使った封筒が何通も積まれている。宗一郎の家の片付け見積書まで、同じ場所に混じっていた。
「出すよ」
「いつです?」
「今日」
千鶴は一通抜き取り、日付を確認した。
「六月十日」
「書き直す」
「もう七月の終わりですよ」
「忘れてた」
「忘れてた人は、机の右から左に何回も移動させません」
透は黙って封筒を受け取った。
「私のバイト代は忘れないですよね」
「人の金だからな」
「自分の金も同じくらい気にしてください」
便利堂の仕事なら値段を出せる。草むしりは作業時間で考えればいいし、網戸の張り替えなら材料代もある。請求書を書くのが面倒なだけで、いくら取るべきかまで迷うことはない。
けれど、半年前にトキが差し出した封筒を思い出すと、透はいまも同じようには考えられなかった。
「今日、全部出してくださいね」
千鶴が封筒をまとめて透の前へ置いた。
「はい」
「その返事、信用していいんですか」
「たぶん」
「駄目じゃないですか」
※
夜になってから、透は祖父の控え帳を開いた。
半年前、トキが祖父にも世話になったと言っていたのが気になっていた。古い頁を年代順に追っていくと、二十二年前の記録に立花家の名前が見つかった。
そこには、立花源三から預かった言葉を立花トキへ届けた記録が残されていた。備考欄には何も書かれていない。
源三はトキの夫だった。
トキは二十二年前、一度だけ祖父から言葉を受け取っている。半年前に自分の足で便利堂まで来たのも、この仕事が実際にどういうものなのか知っていたからだろう。
透は開いた頁を見ながら、昼間の病室で交わした約束を思い返した。
トキは宛先を「あの子」としか言わなかった。
しかも、先に会うなと言った。
普段なら候補を見つければ、届ける前に本人かどうかを確かめに行く。今回はそのやり方を使えない。
それでも調べることまでは止められていなかった。
透は控え帳を閉じ、半年前に作った予約の紙を取り出した。今日の日付を追記したあと、宛先を書く欄には何も記さず、そのまま紙を帳面へ挟んだ。




