第5話 連れて帰る
「犬はな、死ぬときに姿を消すことがある」
梶がそう言ったのは、期限の三日前だった。
「弱った犬が、ふらっとおらんようになる。飼うとった者からしたら、逃げられたみたいに思う。けど、ちゃうんや。あれは死に場所を探しとる」
「本当にあるんですか、そういうの」
千鶴が麦茶をつぎながら訊いた。
「わしは二回見た。二回とも、後で見つかった。うちの犬は納屋の下におった」
透は控え帳を閉じた。
日付の入っていない墓と、洗って伏せたままの餌皿。
宗一郎は、マルの死を見ていない。見ていないから、死んだと書けなかった。
「探します」
「十五年前のもんをか」
「骨は残ります」
梶は湯呑みを置いた。今度は音がしなかった。
「……やってみい」
※
翌日から、透は歩いた。
沖田の家を中心にして、犬が歩ける範囲を潰していく。老いた犬が最後に歩く距離は、そう長くない。梶はそう言った。せいぜい一キロ、山なら沢筋、海なら風の当たらんほう。
千鶴が地図に線を引いた。役場のコピー機で拡大したものだ。楓が持ってきた。
「これ、公図ってやつです」
千鶴が誇らしげに広げた。
「氷見さんが、こっそりくれました」
「こっそりじゃないです」
楓は昼休みに来ていた。制服のまま、軽トラの荷台に地図を広げている。
「地番のわかる図面は、閲覧も写しの交付も普通にできます。手数料も払ってもらいました」
「三百円でしたけどね」
「三百円は三百円です」
※
二日かけて、透は防風林と沢筋を歩いた。
草を分けて、倒木の下を覗いて、側溝を辿った。夏の林はまとわりつくように暑く、藪蚊が耳の周りで鳴き続ける。千鶴は半日でリタイアして、乾物屋の配達に戻っていった。
途中で、何人かの町の人に出会った。
「宗さんの犬な」
畑にいた老女が、鍬を持ったまま言った。
「あの人、探しとったよ。ずいぶん探しとった」
「いつごろですか」
「十五年前の、夏や」
老女はそこで言葉を切って、少し考える顔をした。
「あの夏はな、町がえらいことになっとったから。誰も手伝えんかった」
「えらいこと」
「……知らんかったんか。あんた、あの年」
老女は途中で口をつぐんだ。それから、鍬を持ち直して畑に向き直った。
「昔の話や。すまんね、忘れてしもた」
忘れていない喋り方だった。
透はそれ以上訊かなかった。訊けば手札を晒す。だが今回は、晒すべき手札が自分にあるのかどうかも、よくわからなかった。
胸のあたりに、また引っかかりが残った。
※
六日目の午後に、見つけた。
旧造船所の裏手だった。フェンスが途切れて、防風林がそのまま海に落ちる場所がある。風の当たらない側の、松の根元。
最初に見えたのは、金具だった。
黒く錆びた小さなバックルが、腐葉土の上に半分埋まっている。透はしゃがんで、指で周りの土をどけた。
革はほとんど残っていなかった。それでも、輪の形はわかった。
首輪だった。
その下に、白いものがあった。
透は手を止めた。
指が動かない。動かないまま、しばらくそこにあった。それから息を吸って、腐葉土をもう少しだけどけた。
顎の骨だった。細長い、犬の顎の形をしている。歯がいくつか残っていた。土に還りかけているが、まだ形がある。
松の根が、それを抱くように張り出していた。
透はしばらく、そこに座っていた。
海の音が、林の向こうから聞こえる。風の当たらない場所だった。ここなら、夏でも涼しかっただろう。
「……ここまで来たんだな」
沖田の家から、直線で八百メートル。老いた犬が最後に歩くには、遠すぎるとも言えない距離だった。
※
白木に電話をかけた。
しばらくして、住職が軽トラで来た。作務衣に長靴という格好で、袈裟は持ってこなかった。
「うちの檀家さんの犬ですから」
白木はそう言って笑った。
「まあ、犬に檀家もないですけど」
二人で骨を集めた。白木は素手を使わず、木の匙のようなものを持ってきていた。土ごと掬って、桐の箱に入れる。小さな箱だ。全部入れても半分にならなかった。
「和尚さん」
「はい」
「これ、届くと思いますか」
白木は手を止めずに答えた。
「わかりません」
「わからないですか」
「うちは届けん商売やと言うたでしょう。けど」
白木は箱の蓋を閉めた。
「連れて帰るのは、うちの商売です。それはやりましょう」
※
七日目の朝だった。
沖田の家の裏に、透と白木と、梶と千鶴と、楓が来た。楓は有給を半日取ったのだと言った。
「有給の理由、なんて書いたんですか」
千鶴が訊くと、楓は表情を変えずに答えた。
「私用です」
「犬の埋葬って書けばよかったのに」
「書けません」
石の前を掘った。深くはない。三十センチほどの穴に、桐の箱を置いた。
白木が短く経を読んだ。長い経ではなかった。読み終えると、白木は透を見た。
「どうぞ」
透は膝をついた。
喉の奥のものは、朝からずっと重かった。七日目の言葉は、腐る直前に重くなる。祖父の控え帳には書いていない。透が自分の体で覚えたことだ。
石の前に、透は口を開いた。
言葉は出るはずがなかった。宛先は死んでいる。ここにいるのは骨だ。祖父が三十二年前に持越と書いたのも、そういう理由だったはずだ。
それでも、透は口を開けたまま待った。
※
出た。
喉の奥がひとりでに動いて、透の意思とは無関係に、そこから声が出た。
「マル」
透の声ではなかった。
沖田宗一郎の声だった。診療所で預かったときと同じ、犬を呼ぶための高さだ。
「マル。ええ子や」
言葉が離れていくのがわかった。喉の奥から、重さがすっと抜けた。
誰も動かなかった。
千鶴が両手で口を押さえていた。楓は石を見たまま、まばたきをしていない。梶は湯呑みを持っていなかったから、代わりに自分の膝を握っていた。
海のほうから風が来て、草を撫でて通り過ぎた。
※
「なんで出たんですか」
千鶴が最初に口を開いた。
「犬、死んでますよね。骨ですよね」
透は答えられなかった。
千鶴は透から梶へ視線を移した。
「梶さん、これって」
「わしに訊くな」
梶の声が掠れていた。
「爺さんのときは、骨も墓もなかった。探しても出てこんかった。そういうことかもしれん。わしにはわからん」
白木が立ち上がって、袖の土を払った。
「そらまあ、仏さんも都合がありますから」
「和尚さん、それ便利すぎません?」
千鶴が言うと、白木は真顔でうなずいた。
「便利ですよ。二十年使うとります」
千鶴が笑って、それから、少し泣いた。
※
石に日付を入れることにした。
石屋には楓が話を通した。町内会の予算から出せるのだという。無縁の処理の一環として、家財の整理費に混ぜて計上する。
「そんなことできるんですか」
「できる範囲でやります。それが仕事なので」
彫る日付を決めるとき、透は迷った。
マルが死んだ日はわからない。首輪の下にあった骨からも、日はわからない。
結局、十五年前の八月とだけ入れることにした。
「これでいいんですか」
「宗さんが探した夏なので」
石屋の職人が来たのは三日後で、透はその場に立ち会った。彫り上がった石を見て、はじめて、この一件が終わったのだと思った。
名前と、日付。それだけの石だった。
※
便利堂に戻ると、事務所の電話が鳴っていた。
千鶴が出て、メモを取っている。切ってから、透に紙を渡した。
「診療所からです。川辺さんから」
紙にはこう書いてあった。
六〇一号室 立花さん あと二日くらい
「立花さん、知ってますか」
「知ってる」
立花トキ。九十歳。町の東側に大きな家がある。息子が二人いて、どちらも町を出た。孫が何人かいるはずだ。
透は紙を見下ろした。
草むしり、網戸の張り替え、猫捜し、仏壇の移動。頼まれれば断らない。断らないから頼まれる。
その最後に、これがくっついてくる。
「透さん」
千鶴がイヤホンを外した。片方だけ着けているのを、外すところを見たのは初めてだった。
「あたし、今日のこと、たぶん一生忘れないと思います」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、忘れないでいてくれ」
商店街のほうで、明かりが点き始めた。この時間になると、切れた蛍光灯の位置がはっきりする。
透は診療所の番号を回した。




