第4話 日付のない墓
沖田宗一郎の家は、町の外れにあった。
県道から砂利道を二百メートル入った先の、平屋だ。庭は草に埋もれているが、雨戸はきちんと閉まっている。去年の秋に入院してから、誰かが月に一度は来ていたらしい。
「町内会長から、片付けの見積もりを頼まれた」
透は軽トラを停めて、鍵を開けた。
「便利屋の仕事です」
「便利屋の仕事ですね」
千鶴が復唱した。にやにやしている。
「ついでに調べるのが、便利屋の仕事ですね」
「そうは言ってない」
「言ってないけど、そうですよね」
※
家の中は、思ったより片付いていた。
台所の流しは空で、洗った茶碗が伏せてある。新聞は入院した日で止まっていた。柱時計が止まっている以外、生活の形がそのまま残っている。
仏間に、位牌があった。妻のものだ。三十年前に亡くなっている。
位牌の横に、写真立てがあった。
白と茶の中型犬が、砂利道に座って舌を出している。町内会報に載っていたのと同じ構図だが、こちらは少し古い。犬が若い。
その写真立ての前に、餌皿が置いてあった。
空だった。洗ってあって、埃もかぶっていない。
「……これ」
千鶴が声を落とした。
「宗さん、置いてたんですか。ずっと」
透は皿に触れなかった。仏間の畳の上で、その皿だけが場所を持っている。位牌と写真と餌皿が、同じ列に並んでいた。
※
裏へ回った。
草をかき分けた先に、石があった。
膝の高さほどの自然石で、正面が平らに削ってある。彫ってあるのは、二文字だけだった。
マル
透はしゃがんで、石の表面を指でなぞった。彫りは深い。石屋に頼んだものだ。素人が刻んだ跡ではない。
「透さん、これ」
千鶴が石の下のほうを指した。
「日付、ないですね」
なかった。
人の墓なら、没年月日が入る。犬の墓に入れる人は少ないかもしれないが、石屋に頼んで名前を彫らせる人間なら、日付も入れるのが自然だった。
名前だけがある。いつ死んだのか、どこにも書かれていない。
透は石の前に膝をついたまま、しばらく動かなかった。
律儀な男だった。町でいちばん早く犬を登録し、石屋に墓を頼み、餌皿を洗って仏間に置き続けた。
その男が、死亡の届出だけ出していない。日付だけ彫っていない。
「……死んでない、と思ってたんじゃないか」
「え?」
「マルが」
透は立ち上がった。
「死んだんじゃなくて、いなくなったんじゃないか。だから日付が入れられない」
千鶴が石を見て、それから透を見た。
「じゃあ、この墓」
「帰ってくる場所だ。たぶん」
※
便利堂に戻ると、事務所の上がり框に梶十三が座っていた。
鍵は開けていったから、勝手に入るのはいつものことだ。七十一歳。元漁師で、祖父の弟弟子にあたる。
弟弟子といっても、預かり屋を継いだわけではない。梶に稼業は移らなかった。若いころ祖父の手伝いをして、看取りの場に何度も付いていって、それでも一度も言葉が入ってこなかったのだと本人が言っていた。
器がなかったんやろな。梶はそう言って笑った。笑い方が少し歪んでいたのを、透は子どものころから覚えている。
祖父が死んでからの十三年、透に飯を食わせてきたのはこの人だ。中学から高校のあいだ、便利堂の台所に鍋が置いてあることが週に二度あった。誰が置いたかは訊かなくてもわかった。
湯呑みを持っている。透の家の湯呑みだ。
「宗さんの犬な」
挨拶はなかった。
「聞いたで。あんた、墓見に行ったんやろ」
「町は狭いですね」
「狭いのう」
千鶴が「あ、梶さん、こんちはー」と言って、冷蔵庫から麦茶を出した。
「梶さん、今日クソ暑くないですか」
「なんや、その言い方は」
「暑いってことです」
「クソは要らんやろ、クソは」
「じゃあ、激アツ」
「もっと悪なっとる」
千鶴は麦茶を注ぎながら、まるで気にしていない。梶のほうも本気で咎めてはいない。この二人はいつもこれをやる。
梶はその様子を見て、少しだけ目を細めた。この子が来てから、梶の来る回数が増えている。
「梶さん、控え帳のことで訊きたいんですけど」
透は八冊のうち三十二年前の巻を持ってきて、開いた。
「宛先が死んでた一件があります。届け先の欄に、持越って書いてある」
梶の湯呑みが、口の手前で止まった。
※
「……その字、爺さんが書いたんか」
「祖父の字です」
梶は湯呑みを畳に置いた。音がした。
「わしはな、控え帳は見たことない。あの人、誰にも見せんかったから」
「持越って、どういう意味ですか」
「言葉のとおりやろ」
「持ち越したってことですか。翌年に」
「ちゃう」
梶は透を見た。
「持ったまま、いうことや」
千鶴が麦茶のコップを持ったまま、動きを止めた。
「宛先が死んどったら、届けようがない。捨てることもできん。ほな、どうする。持っとくしかないわな」
「七日で腐るんじゃないんですか」
「腐る。腐ったまま、持っとくんや」
梶の指が、湯呑みの縁をなぞった。
「爺さんはな、それを一遍だけやった。三十二年前や。それ以来、宛先が死んどる件は受けんようになった」
「受けない?」
「臨終の場で、こら死んだもんへの言葉やなと思たら、預からんかった。待つだけ待って、手ぶらで帰ってきよった」
透は控え帳を見下ろした。
四十年分、淡々と並んだ記録。そこに「持越」が一件しかない理由が、はじめてわかった。
二度としなかったからだ。
※
「梶さん」
「なんや」
「俺は、預かってしまいました」
梶は答えなかった。
「宗さんが呼んだのが犬の名前だって、そのときはわからなかった。マルっていう人がいるんだと思った」
「そらそうやろ。誰でもそう思う」
「持っとくしかないですか」
梶はしばらく黙ってから、湯呑みを持ち上げた。中身はもう空のはずだった。
「爺さんはな、三十二年前のあれのあと、しばらく口数が減った」
「減った」
「口数やない。言葉のほうが減ったんや」
梶は湯呑みの中を覗き込んだ。
「飯食うとってな、醤油取ってくれ言うつもりが、そこで止まる。指はちゃんと醤油差しを指しとる。けど名前が出てこん。あの人はそれを、齢のせいや言うとった。五十そこそこやったのに」
「……それ、いつまで続いたんですか」
「治っとらん。死ぬまでや」
千鶴が麦茶の手を止めた。
「言葉が出てこんようになったんや。何言おうとしとったか、自分でわからんようになる。あんた、そういうことないか」
透の指が、控え帳の上で止まった。
ある。
毎回同じ場所で、同じように詰まる。疲れているのだと思ってきた。ずっとそう思うことにしてきた。
「……ないです」
嘘をついた理由は、自分でもわからなかった。
梶は透の顔を見て、それ以上は訊かなかった。
※
梶が帰ったあと、千鶴が言った。
「透さん、あと何日でしたっけ」
「三日」
「三日で、死んだ犬に届ける方法、見つかりますかね」
窓の外で、アーケードの照明が点いた。三つに一つは切れたままだ。
透は答えなかった。答える代わりに、明日どこを歩くかを考えていた。
宗一郎の声は、まだ胸の高さから動かない。二日で慣れるものでもなかった。




