第3話 七十席
午後一時に、常光寺の本堂は埋まった。
七十席のパイプ椅子に、七十人が座っている。後ろのほうは立ち見だった。遺影の中の沖田宗一郎は、透が知っているより十年ほど若く、少し不機嫌そうな顔で正面を向いている。
「埋まってる……」
千鶴が入口の脇で、小声で言った。
「マジで埋まってるじゃないですか」
「言っただろう」
「いや、あたし絶対三十人くらいだと思ってました。宗さん、身寄りゼロですよ」
「身寄りと、知り合いは別だ」
白木の読経が始まると、私語は止んだ。夏の本堂は暑い。開け放した戸から入る風が、焼香の煙を横に流していく。
透は列の後ろに並んだ。
焼香の順番が回ってくるまで、喉の奥に意識を向けていた。宗一郎の言葉は、胸の高さで冷たく据わったままだ。動かない。
この本堂には七十人いる。そのうち誰かがマルの飼い主だったなら、あるいはマルと呼ばれる人間がいたなら、透の口は勝手に開いているはずだった。
開かない。
やはり宛先は、この場にいない。
※
葬儀のあとは、寺の広間で精進落としになる。
町内会が仕切って、仕出しの折詰と、瓶ビールが並んだ。誰も泣いていない。八十四歳の一人暮らしの死は、この町では悲劇ではなく、順番として扱われる。
透は折詰を配って回った。配りながら、聞いた。
訊きはしない。訊けば手札を晒すことになる、というのが掟その一だ。だから透は茶を注ぎ、皿を下げ、そのあいだに耳だけを開けておく。
最初に聞こえてきたのは、犬の話ではなかった。
「宗さんには、うちの屋根やってもろたことがある」
商店街の乾物屋の主人、千鶴の祖父の藤木さんが、折詰の海老を箸で持ち上げながら言った。
「台風のあとな。瓦が飛んで、業者は三か月待ちや言われて。ほしたらあの人、翌朝には梯子担いで来よった」
「金は」
「取らんかった。うちの婆さんが菓子折り持っていったら、いらんいうて。代わりに、そこの犬に煮干しくれ、いうて」
笑いが起きた。
「宗さんとこの犬な、あれは賢かった」
次に口を開いたのは、藤木さんの向かいに座った漁協の年寄りだった。
「あんた覚えとるか、マル。宗さんが軽トラの荷台に乗せて、どこ行くにも一緒やった」
「乗せとった乗せとった」
と、藤木さんが応じる。
「荷台に立って、風受けて」
「あれ、法律的にはあかんのやろ」
誰かが口を挟んだ。
「昔の話や」
笑いが起きた。
透は空いた瓶を下げながら、その輪の端に立った。
「賢いいうても、あの犬、宗さんの言うことしか聞かんかったで」
漁協の年寄りが言うと、藤木さんが茶碗を置いた。
「そらそうよ。子犬のときから宗さんが育てたんやから」
「奥さんが死んでからやろ、あの犬来たん」
「せや。奥さん亡くして、ひと月かふた月で、どっかから貰うてきた」
三十年前に妻を亡くし、二十九年前に犬を登録した。数字が合う。
※
「マルは、いつまでおったんやろな」
輪の中の誰かが言った。誰が言ったのか、透にはわからなかった。
輪の中の空気が、わずかに変わった。透にはそれがわかった。話の速度が落ちるときの、あの感じだ。
「……長生きしたやろ。十五年は生きたんちゃうか」
「もっとやろ。ずっとおった気がするわ」
二人か三人が、思い出す顔で天井のほうを見た。
「いや、おらんようになったんは、あの年の夏や」
言ったのは、いちばん奥に座っていた老人だった。名前は中尾といったはずだ。漁協で長く網を扱っていた男の弟にあたる。
あの年の夏。
誰も、何年前かを言わなかった。
「そうやったかいな」
「そうや。祭りの前やった」
そこで会話が途切れた。
途切れ方が不自然だった。誰かが話題を変えたのではない。全員が同時に、同じ方向へ黙ったという感じだった。
誰かが咳をした。別の誰かが、瓶ビールを取りに立った。空いた席に別の話題が流れ込んできて、二十秒もすると、広間はまたもとの音量に戻っていた。
透は瓶を下げて、台所へ運んだ。
運びながら、自分の胸のあたりに、かすかな引っかかりを感じた。理由はわからない。夏の話をしていただけだ。犬が死んだ話をしていただけだ。
台所で瓶を置いて、透は息を吐いた。
流しの上の窓から、寺の裏の墓地が見えた。夏草が墓石のあいだを埋めている。
こういうときの感覚を、透は昔から持て余している。何かが引っかかって、それが何かがわからないまま、そのうち忘れる。忘れたことも忘れる。
両親の墓も、あの並びのどこかにある。月に一度は来ているのに、透はいま、それがどの列だったかを思い出すのに数秒かかった。
※
人がはけたのは、三時過ぎだった。
千鶴が椅子を畳みながら、透の顔を見た。
「なんか、収穫ありました?」
「犬は子犬から飼ってた。奥さんが死んだあとに貰われてきた」
「へえ。じゃあ、代わりみたいな感じだったんですかね」
千鶴は畳んだ椅子を壁に立てかけて、少し考えた顔をした。
「あたし、それけっこうエモいと思うんですけど」
「エモい」
「あ、伝わってない。えーと、……なんかグッとくるってことです」
「グッとは、くる」
「じゃあエモいでいいじゃないですか」
「よくない」
白木が笑いながら通りかかった。
「榊さん、そこは負けたことにしといたほうが早いですよ」
※
もうひとつ、拾えたものがあった。
椅子を運んでいるとき、町内会長がついでのように言ったのだ。
「そういや宗さんとこ、家の裏に犬の墓あったな。石まで置いて」
「墓、ですか」
「立派なもんやったで。あの人、ああいうとこ律儀やから」
律儀な男が、犬の墓に石まで置いて、なぜ死亡の届出だけ出さなかったのか。
透はその不揃いさを、頭の隅に置いた。
※
夕方、便利堂に戻ると、事務所の電話が鳴っていた。
役場の氷見楓だった。
「調べました。畜犬台帳、県のほうにも照会をかけたんですけど」
「早いですね」
「暇ではないです。ついでです」
楓の声は、電話でも同じ調子だった。
「抹消の届出はやっぱりありません。それと、注射済票の交付記録が途中で止まってます。狂犬病の予防注射は毎年ですけど、記録が残ってる最後の年は、十五年前です」
十五年前。
「そこで止まってるということは」
「その翌年から、宗さんは連れていってません。犬が死んだと考えるのが普通です」
透は受話器を持ったまま、窓の外を見た。
商店街のアーケードの下を、自転車が通っていく。夏の夕方の、いつもの町だった。
「十五年前の、いつまでの記録ですか」
「六月です。毎年、集合注射が六月にありますから」
六月まで生きていた。そして、あの年の夏にいなくなった。
「榊さん?」
「……ああ、すみません」
喉の奥で、宗一郎の声が静かに据わっている。マル。ええ子や。
残り四日と、あと少し。




