第2話 宛先のない一言
常光寺の本堂は、朝のうちだけ涼しい。
透はパイプ椅子を七列並べ終えて、汗を拭った。沖田宗一郎の葬儀は明日の午後だが、身寄りがないぶん、町内会と寺で段取りをつけることになっている。
「七十席も要りますかね」
千鶴が最後の一脚を置きながら言った。
「宗さん、ひとり暮らしだったんですよね」
「町の人は来る」
「来ます? 親戚いないのに」
「来る。ここはそういう町だ」
「うわ、田舎の圧」
「そう言うな」
本堂の奥から、笑い声が聞こえた。
「圧やなくて、暇なんですよ」
住職の白木隆源が、袈裟の袖をまくって出てきた。四十五歳。この寺の三代目で、町の死をいちばん多く見ている人間だが、話し方は世間話しかしない。
「みんな暇やから、人が死ぬと来る。悪いことやないでしょう」
「身も蓋もないっすね」
「そらまあ、仏さんも都合がありますから」
白木は椅子の列を見て、二列目を少しだけ前に寄せた。長年の癖らしい。
※
千鶴が水を汲みに行ってから、透は白木に訊いた。
「和尚さん。犬の話なんですけど」
「宗さんの?」
白木は驚かなかった。透の稼業を知っている数少ない一人だ。祖父の代からの付き合いになる。
「マルという犬に宛てた言葉です。犬はもう死んでます」
「難儀ですね」
「和尚さんの側だと、こういうのはどう扱うんですか」
白木は本堂の畳に腰を下ろした。
「うちは、届けません。うちがやるのは、こっちの人間の気持ちに形をつけることです。手を合わせる場所を作って、区切りをつける。届いたかどうかは、問いません」
「問わないんですか」
「問うたら宗教やなくて、業務になってまうでしょう」
白木は笑った。
「榊さんとこは、届けてしまう。だからしんどいんですよ、あんたの家は。昔からそうです」
透は返す言葉を探して、見つけられなかった。
「爺さんも、そう言われてましたか」
「一度だけね。あんたのお爺さんが、酔うたときに」
白木は言葉を選ぶような間を置いた。
「届けられんかったもんは、どこに行くんやろうな、と」
※
午後、透は町役場へ行った。
沖田宗一郎の身寄りを、正式に確認しておきたかった。マルを譲り受けたのか、子犬から飼っていたのか。犬の来歴がわかれば、宛先の見方も変わる。
住民課の窓口で用件を伝えると、四十くらいの男が困った顔をした。名札に田淵とある。
「個人情報になりますんで、ご親族以外には」
「親族がいないので、その確認に来たんですけど」
「そう言われましても」
田淵の手が止まった。困っているのではなく、面倒だと思っている手の止め方だった。
「田淵さん」
声は透の後ろからではなく、カウンターの内側から来た。背の高い女がファイルを抱えて立っている。役場の制服だ。口を引き結んだまま、田淵のほうを見ている。
「沖田さんの件なら、わたしが担当です。無縁の手続き、うちで走ってますよね」
「そら、そうやけど」
「生活歴の照会はどのみち必要です。榊さんは寺と町内会側の窓口ですし、共有しても問題ないかと」
田淵は肩をすくめて、奥へ引っ込んだ。
女は透に向き直った。
「氷見楓です。住民課」
「榊です。……助かりました」
「助けてません。手続き上の事実を言っただけです」
言い方はそっけないのに、目はまっすぐこちらを見ている。透はこの町で、こういう目をする人間をあまり見たことがなかった。
この町の人間は、たいてい正面から見ない。斜めから見て、こちらの出方を待つ。誰が誰の親戚かを頭の中で数えながら喋る。それが悪いとは思わないが、慣れると疲れる。
「榊さん。ひとつ訊いてもいいですか」
楓は書庫の鍵を取りながら言った。
「便利屋さんが、なんで身寄りの確認を?」
透は答えを探した。犬を捜しているとは言えない。死んだ人から言葉を預かっているとも言えない。
「……頼まれたので」
「誰にですか」
「宗さんに」
「亡くなってますよね」
「はい」
楓は少しのあいだ透を見ていた。それから、それ以上は訊かなかった。
「わかりました。台帳、こっちです」
訊かないでくれたのか、後で訊くつもりなのか、透にはわからなかった。
※
沖田宗一郎の記録は、思ったより薄かった。
妻とは三十年前に死別。子どもはいない。兄がいたが二十年前に他界し、その子どもたちは県外にいて、連絡は取れているが引き取りは断られている。
「犬の記録は、ないですよね」
「畜犬登録なら残ってます」
楓は別のファイルを持ってきた。
「狂犬病予防法で、登録と注射済票の交付があるので。犬は住民票には載りませんけど、台帳はあります」
沖田宗一郎 マル 雑種 オス
登録は二十九年前。
「二十九年」
「登録は生涯に一回です。死亡の届出があれば、そこで抹消されます」
楓が紙を指でなぞって、そこで指を止めた。
「出てませんね」
「え」
「死亡の届出がありません。登録が生きたままです」
透はその欄を見た。抹消の日付が入るはずの場所が、空欄になっている。
「……犬が死んだら、普通は出すものですか」
「出す人は出します。出さない人のほうが多いです。実際には注意されて終わりですし」
楓は事務的に言って、それから少しだけ声を落とした。
「でも、宗さんは出さない人には見えません。二十九年前に登録した人ですよ。町でいちばん早い部類です」
※
便利堂に戻って、透は祖父の控え帳を床に並べた。
四十年分、八冊ある。日付と、預かった相手と、届けた相手。それだけが淡々と並んでいる。祖父は感想を書かない人だった。
宛先が死者だった前例を探した。
あった。三十二年前の欄に一件だけ。
預かった相手の名前があり、届けた相手の欄には名前ではなく、二文字だけ書いてある。
持越
「持越?」
千鶴が背中から覗き込んでいた。
「持ち越しってことですか。来年に持ち越す、みたいな」
「かもしれん」
「かもしれんって、他に何があるんですか」
透は答えなかった。
控え帳をめくって、その先の記録を追った。三十二年前の九月、十月、十一月。祖父の記録は淡々と続いている。持越と書かれた一件の続きは、どこにも出てこない。
翌年にも、その翌年にもない。
四十年分、全部見た。持越の二文字は、その一件きりだった。
「透さん、それって」
「うん」
「持ち越したまま、終わってません?」
窓の外はもう暗い。アーケードの照明が、三つに一つ切れたまま点いている。
透は控え帳を閉じた。喉の奥で、宗一郎の声が据わっている。マル。ええ子や。
五日しかない、と思ってから、五日もある、と思い直した。どちらでも同じだった。日数の問題ではないことは、たぶん最初からわかっている。




