第1話 線香一本もたない
「榊便利堂」の朝は、看板を出すところから始まらない。看板はもう三年も店の奥に立てかけたままだ。それでも依頼は途切れない。町が小さいというのは、そういうことだった。
草むしり、網戸の張り替え、猫捜し、仏壇の移動。頼まれれば断らない。断らないから頼まれる。臥雲町は年寄りばかりの町で、力仕事は常に人手不足だ。
その朝、透が店の前で軽トラの荷台を掃いていると、自転車が坂を下ってきた。ブレーキの音が悲鳴に近い。
「おはようございまーす。あー、雨降りそうじゃないですか、これ」
藤木千鶴が片足を地面につけて止まった。イヤホンを片方だけ着けている。もう片方はいつも垂らしたままで、透は一度も理由を訊いたことがない。
「今日、乾物屋の配達は」
「終わりました。じいちゃんの分も走ったんで、あたし今日、実質二人分働いてるんですよ。時給、上がりません?」
「上がらない」
「即答ぁ」
千鶴は自転車を停めて、勝手に事務所へ入っていった。この子が来るようになって半年になる。高校を出て就職せず、家の乾物屋を手伝いながら、週三日ここでバイトをしている。理由を訊いたら「便利屋って人生の裏側が見えそうだから」と言われた。
実際、見えている。ただし千鶴が期待していたものとは、たぶん違う。
「透さん、今日の予定は」
「診療所の裏の草。あと午後から寺で椅子並べ」
「地味ぃ」
「地味だな」
「もっとこう、ないんですか。ミステリーとかサスペンスとか」
透は箒を軽トラの荷台に投げ入れた。
「草むしりだ」
※
臥雲診療所の裏は、去年より草の伸びが早かった。梅雨明けの草は根が浅く、力を入れると手応えなく抜ける。軍手の中に汗が溜まっていった。
千鶴はすぐにへばって、日陰でスポーツドリンクを飲んでいる。
「これ、無限に生えてくるやつじゃないですか。もう詰んでません?」
「秋になれば止まる」
「秋、遠くないですか」
裏口の戸が開いたのは、そのときだった。
「榊くん」
看護師の川辺志乃が、半分だけ顔を出していた。声は出しているのに、その声を殺すような話し方だった。透はその出し方を知っている。
千鶴も気づいたらしく、ペットボトルの蓋を閉めた。
「宗さん。もう、あんまり」
川辺はそれだけ言って、廊下の奥のほうを目で示した。
透は軍手を外した。ゴム引きの内側が白く湿っている。
「呼ばれてる?」
透が訊くと、川辺はうなずいた。
「昨日から、そればっかり」
※
診療所の廊下は消毒液と、その下に隠れきらない古い建物の匂いがした。
沖田宗一郎の病室は西向きの角部屋だ。八十四歳。町の外れで一人暮らしをしていて、去年の秋に転んでから戻れなくなった。身寄りは、いないと聞いている。
透が最初に呼ばれたのは、入院して二週目のことだった。窓の桟を拭いてくれと言われて拭いた。その帰りぎわ、宗一郎は靴を履く透の背中に向かって言った。
――兄ちゃん、あんた、榊さんとこの孫やろ。
この町では、それが依頼の言い方になる。
「まだ、生きとる」
病室に入ると、宗一郎はそう言った。目は開いている。声は薄い。
「まだ生きてますよ」
「兄ちゃん、暇やのう」
「草むしりの途中です」
宗一郎が笑おうとして、笑いきる前に咳になった。川辺が背中に手を回して、しばらく待った。
透は枕元の丸椅子に座った。テレビはついていない。窓の外に、防風林の向こうの海が細く見える。
こういうとき、透は何もしないで座っている。急かさないし、話しかけもしない。
預かるいうんは、待つことや。祖父にそう教わった。
※
三時間が過ぎた。
千鶴は途中で「草、やっときます」と言って外へ出ていった。あの子は空気を読まないが、読まないなりに、読むべきときは動く。
午後三時を回って、宗一郎の呼吸が変わった。
深く吸って、深く吐いて、それから止まる。十秒ほど何も動かない。もう終わったかと思ったころに、また吸い始める。それを何度も繰り返した。
喉の奥で、痰の絡む音が鳴り続けている。ごろごろと、湯の沸くような音だ。川辺が入ってきて、手首を取った。それから透を見て、小さくうなずいた。
やがて、胸が動かなくなった。
代わりに、顎が動いた。口が開いて、閉じて、また開く。水から上げられた魚のような動き方だった。胸はほとんど上下していない。息を吸っているように見えて、たぶん、もう吸えていない。
透は膝をついた。
そのとき、自分の中に妙な静けさが立つのを感じる。悲しいのでも緊張しているのでもなく、器が空になる感覚だ。運ぶための場所が、そこにできる。
宗一郎の唇が動いた。
声にはならなかった。空気が漏れる音だけがして、それでも透の中で、その音は音以上のものになった。
「マル」
宗一郎の声だ。ただし、いま病室で聞いていた声とは違った。痰が絡んでいない。喉に力があって、犬を呼ぶときにだけ人が使う高さになっている。
「マル。ええ子や」
入ってきた。
透は口を閉じた。喉に力を入れて、飲み込む。氷の粒をひとつ飲んだときに似ていた。冷たいものが胸の高さまで下りて、そこで止まる。
据わるまで動くな、と祖父に言われている。据わってしまえば、もう自分の意思では出せない。宛先の前でしか出ない。
顎の動きが、間隔を空け始めた。
一度動いて、しばらく止まる。もう一度動いて、また止まる。三度目までは数えた。四度目があったのかどうか、透にはわからなかった。
部屋が静かになった。喉の音も止んでいた。
川辺が時計を見た。書くものを取りに行く足音が遠ざかる。
透は膝をついたまま、頭の中で日を数えていた。
七日。
預かった言葉は七日で腐る。同時に持てるのは一つだけで、要約も言い換えもできない。宛先の前で口を開けば勝手に出るが、それ以外の誰に言っても、ただの音にしかならない。
ただし、近づけば動く。宛先に縁の深い者の前に立つと、喉の奥が勝手に動くことがある。出かかって、途中で止まる。祖父はそれを「手が届く」と呼んでいた。近いというだけで、届いたわけではない。
届かなければ、その言葉は透の中に居座る。
祖父はそれを「腐る」と言った。腐った言葉は出ていかない。棚の奥に置きっぱなしにした瓶のように、そこにあり続ける。
だから預かり屋は、間に合わなければ意味がない。線香一本もたん、と祖父は言っていた。心臓が止まってから預かれる時間は、それくらいしかない。
※
便利堂に戻ったのは、日が落ちてからだった。
千鶴はまだ事務所にいて、扇風機の前で髪を乾かしていた。草むしりを最後までやったらしい。
「終わりました?」
「終わった」
「……宗さん」
「うん」
千鶴は何か言いかけて、やめた。この子は死んだ人の話をするとき、いつも一度言葉を飲み込む。十九歳の距離の取り方だと透は思っている。
「で、何を預かったんですか」
「マル」
「マル?」
「マル、ええ子や、って」
千鶴が目を丸くした。
「え、それ誰ですか」
「わからん」
透は帳面を開いた。町内会名簿の写しと、祖父の代からの手書きの控えが挟んである。この町の人間なら、たいていここに載っている。
マル、丸子、丸太、円。指で追う。宗一郎の周辺から広げる。親族、近所、昔の勤め先。
「いないな」
「マルって名前の人、そもそもあんまりいなくないですか。犬っぽいっていうか」
透の指が止まった。
「……犬か」
「え、待ってください。あたし今、けっこう適当に言いましたけど」
透は立ち上がって、店の奥の棚から古い箱を下ろした。祖父が町内を回って集めた雑多な記録が入っている。回覧板の控え、町内会報、祭りの写真。
その中に、古い町内会報の束があった。「わが家の家族」という、住民が飼い犬猫の写真を投稿する欄がある。
沖田宗一郎の名前があった。
白と茶の中型犬が、砂利道に座って舌を出している。飼い主の手が、犬の頭に置かれている。
――マル(十二歳)
会報の日付は十七年前だった。
透はしばらくその写真を見ていた。
「透さん」
「犬だ」
「……その犬、今」
「十七年前に十二歳なら」
言うまでもなかった。マルはとっくに死んでいる。
千鶴が扇風機を止めた。事務所が急に静かになる。
「じゃあ、その言葉、どこに届けるんですか」
透は答えなかった。
喉の奥で、宗一郎の声が据わっている。マル。ええ子や。
宛先は、この世にいない。
「……なんで、こんな」
言いかけて、詰まった。
こんな、の後に続けるつもりだった言葉が出てこない。難しい言葉ではない。日常的に使う、ごく普通の一語だったはずだ。喉の手前まで来ている感覚はあるし、輪郭もわかる。ただ、それが何だったのかがわからない。
透は口を閉じた。こういうことは、たまにある。疲れているのだと思うことにしている。ずっとそう思うことにしてきた。
窓の外で、商店街のアーケードの照明が点いた。三つに一つは切れたままだ。
残り六日と、あと少し。
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