第48話 トヨちゃん
宮下ハル本人からの電話は来なかった。
連絡してきたのは、娘だった。
昼を少し回ったころ、透は商店街の衣料品店で祭り提灯の配線を直していた。脚立を下りたところで携帯が鳴る。
知らない番号だった。
「はい、榊です」
『宮下と申します。母のことで』
透は工具箱へ伸ばした手を止めた。
ハルは数日前から食事が取れなくなり、前日に入院したという。朝までは話せていたが、昼前から呼吸が弱くなった。
その前に娘へ、榊便利堂へ電話してほしいと頼んだらしい。
『約束してあるから、と言ってます』
透は工具を片づけた。
「今から行きます」
※
ハルは窓際のベッドにいた。
便利堂まで一人で歩いてきたときより、布団の中の身体が小さく見える。
娘が耳元へ顔を寄せた。
「お母さん。榊さん来てくれたよ」
しばらくして瞼が開いた。
透を見ると、ハルの口元がわずかに動いた。
「……来たね」
「来ました」
声は細かったが、意識はある。
透がベッド脇の椅子へ座ると、ハルは娘を見た。
娘は何も訊かなかった。
「外にいるね」
ハルが「ごめんね」と言う。
娘は布団の端を直してから病室を出た。
※
戸が閉まるのを待って、透はハルへ向き直った。
「届け先、聞いていいですか」
ハルは一度目を閉じた。
呼吸を整えてから、小さく答える。
「トヨちゃん」
初めて聞く名前だった。
「名字は?」
ハルは首を横へ動かした。
「いらん」
「それだと探すの大変ですよ」
「榊さんなら……探すやろ」
「探しますけど」
ハルの口元が少し上がる。
便利堂へ来た日と同じ顔だった。
「この町の人ですか」
「そう」
「今も?」
返事はなかった。
透は質問を止めた。
「言葉を預かります」
ハルが窓のほうを見る。
夏の日がカーテン越しに差していた。
遠くで太鼓が鳴っている。
ハルは少し時間をかけて息を吸った。
「トヨちゃん。あれは……うちが持っていったんよ」
最後まで声が出ると、透の胸の内側へ重みが入った。
意味はわからない。
何を指す「あれ」なのかも知らない。
透はそのまま受け取った。
「預かりました」
ハルが小さく頷く。
「七日以内に届けます」
目を閉じたハルの唇が、もう一度動いた。
透が少し近づく。
「何です?」
「よかった」
今度の言葉は、透の中には入ってこなかった。
※
娘を呼び、透は病室を出た。
廊下を歩いているあいだも、ハルから預かった一言は胸の奥に残っていた。
便利堂へ戻ると、受け取った日と宮下ハルの名を控え、宛先には「トヨ」とだけ記した。
千鶴が向かいから見る。
「名字は?」
「聞いたけど言わなかった」
「住所は?」
「知らない」
「この町にはいるんですか」
「ハルさんはそう言ってた」
千鶴は机の紙を見た。
「ノブさんなら知ってません?」
「俺もそう思った」
透は浦上家へ電話をかけた。
※
ノブはトヨという名前を聞くと、すぐには返事をしなかった。
『どこで聞いた』
「ハルさんからです」
『……そうか』
「知ってます?」
また少し間が空く。
『名前だけな』
「名字は?」
『知らん』
「どんな人です?」
『そこまでは聞いとらんよ』
透は受話器を持ち直した。
「何を知ってるんです?」
『ハルが昔、ときどき言うとったんや』
「何て?」
『トヨちゃんに返さんといかん、って』
透は何も言わなかった。
「何を返すのかは?」
『訊いても、まだええって言うてな。結局聞かんかった』
ハルらしい返事だった。
それ以上、ノブからわかることはなかった。
※
翌朝、宮下家から電話が入った。
ハルは明け方に亡くなったという。
透は娘へ短く礼を言って電話を切った。
机には、前日に書いた控えがある。
トヨという名前だけでは、まだ届け先へ辿り着けない。
透は楓へ連絡した。
※
午後、二人は図書館で古い住宅地図と町の公開資料を広げた。
楓にはハルから預かった内容は話していない。
「探すのはトヨという人。昔から町にいたらしい」
「名字はなし?」
「なし」
「かなり広いですね」
「だから困ってる」
楓は古い電話帳の索引を確認した。
透も別の冊子をめくる。
読みがトヨになる名前をいくつか当たったが、ハルと結びつく人物は見つからなかった。
「宮下さんの昔の知り合いから聞くほうが早いかもしれませんね」
「ノブさんは名前しか知らなかった」
「ほかの人は?」
「これから」
楓が住宅地図を閉じかけ、ふと手を止めた。
「宮下」
透が顔を上げる。
楓は十五年前の古い地図を開き直した。
「四世帯の中にありましたよね」
義信が名簿から外した四世帯。
その名前は、透も控えてある。
確認すると、そのうち一軒の世帯主が宮下姓だった。
透は地図を引き寄せた。
「場所は?」
楓が頁を追う。
指が止まった。
「二十七番です」
※
数日前、黒瀬と草を刈った空き地だった。
家はなく、柿の木だけが残っている。
透と楓は夕方、もう一度二十七番へ向かった。
南京錠の掛かった門の外で、楓が古い住宅地図を開く。
十五年前には確かに家が描かれている。
その横にある名字は、宮下だった。
「トヨさんがこの家にいたとは、まだ言えませんね」
楓が言う。
「ああ」
世帯主は別の名前だ。
家族まで載った資料ではない。
同じ姓というだけで決めることはできなかった。
透は金網越しに空き地を見た。
ハルの言葉は動かない。
ここが昔の家だったとしても、今そこにトヨ本人はいない。
透は地図へ目を戻した。
十五年前の二十七番には、宮下と記されていた。




