第47話 二十七番
宮下ハルが便利堂へ来てから数日、電話は鳴らなかった。
透も急いではいない。
まだ何も預かっておらず、七日の期限も始まっていない。ハル本人が言っていたとおり、すぐに呼ばれる話ではなさそうだった。
その間にも夏は進んだ。
午前は網戸を張り、午後は古い室外機の掃除へ行く。商店街では祭りの提灯を吊るす仕事も始まり、夕方になると遠くで太鼓の練習が聞こえた。
その日の昼前、楓が便利堂へ来た。
透は机で請求書を書いていた。千鶴は裏で扇風機の梱包をしている。
「透さん、一つだけ場所を追えました」
楓が紙を机へ置いた。
「四軒の?」
「はい。公開されている古い地図と、現在の区画を照らしました」
千鶴も裏から戻ってきた。
「見ていいやつです?」
「大丈夫です」
楓が即答してから、透を見る。
「最初に言わないと心配する人がいるので」
「俺は何も言ってないだろ」
「今までがあるので」
千鶴が黙って頷いた。
透は紙へ目を戻した。
十五年前、義信が名簿から外した四世帯。そのうち一軒があった土地だけは、現在の区画まで辿れたという。
「港東二十七番です」
楓が地図の一角を指した。
港の東側にある低地だった。
「今も家は?」
「ありません。地図では空き地です」
透も場所はだいたいわかった。
港から少し外れ、倉庫や空き地が増えるあたりだ。
「行ってみる」
「わたしも行きます」
「仕事は?」
「今日はもう上がりました」
千鶴が自分を指した。
「あたしは?」
「店番」
透が答えると、千鶴は小さく息を吐いた。
「聞くだけ無駄でした」
※
商店街を離れるにつれて、太鼓の音は薄くなった。
港東へ入ると、代わりに蝉の声が近くなる。海からの風はあるが、日向を歩けば背中に汗がにじんだ。
二十七番は、道の突き当たり近くにあった。
金網で囲われた空き地だった。
中には草が伸びている。隣には倉庫が建っているが、反対側は同じように空き地が続いていた。
「ここです」
楓が古い地図と現在の区画を見比べた。
十五年前の地図には、この場所に家の形が残っている。
透は金網の前まで行った。
道路沿いの草だけが短い。
金網に絡んだ蔓も途中で切られている。
「放ったらかしじゃないな」
楓も門の南京錠を見る。
「誰か来てるみたいですね」
透は土地の中へは入らなかった。
持ち主のものだ。
わかったのは、昔ここに家があったことと、今も誰かが土地を管理しているらしいということだけだった。
※
便利堂へ戻ったあと、透は登記について正規に確認できる範囲を調べた。
翌日、手続きのうえで現在の名義を確かめる。
そこにあった名前を見て、透は一度だけ紙から目を上げた。
黒瀬巌だった。
※
黒瀬へ電話をかけると、本人は隠さなかった。
「港東二十七番の土地、黒瀬さんの名義ですよね」
『はい』
「少し話せますか」
短い間があった。
『土地のところでよろしいですか』
それだけで通じた。
夕方に行くと、黒瀬はすでに軽トラックを止めていた。
今日は上着ではなく作業着を着ている。荷台には刈払機と熊手が載っていた。
「草刈りしてたの、黒瀬さんですか」
「ええ。伸びたころに来ています」
楓も一緒だった。
黒瀬は彼女にも頭を下げる。
「氷見さん」
「こんにちは」
楓は金網の向こうを見た。
「十五年前、ここに家があったんですよね」
「ありました」
「父が外した四世帯の一軒ですか」
黒瀬は少し間を置いてから頷いた。
「そうです」
透は南京錠を見る。
「どうして黒瀬さんが持ってるんです?」
「あとになって、手放される話を聞きましてね。私が引き取りました」
それ以上の経緯は話さなかった。
「何のために?」
今度は返事まで少し長かった。
黒瀬は金網越しに空き地を見る。
「なくしてしまう気にはなれなかったんです」
透は続きを待ったが、黒瀬は南京錠を開けた。
「中へ入りますか」
※
草の中には、家の形がわかるものはほとんど残っていなかった。
黒瀬が先に歩き、透と楓が後ろをついていく。
奥に一本だけ木が立っていた。
柿だった。
まだ青い実がいくつかついている。
「これは昔から?」
透が訊く。
「ええ」
黒瀬は枝を見上げた。
「家を片づけたときも、この木だけは残しました」
楓が少し離れて幹を見る。
「住んでいた人を知ってたんですか」
「知っていましたよ」
黒瀬は足元の枯れ枝を一本拾った。
「町が今より狭かったころですからね」
十五年前の名簿にあった家。
現在は黒瀬の土地になり、家はなくなっている。
それでも柿の木だけは残されていた。
「ここの人は、戻らなかったんですか」
透が訊いた。
黒瀬は枝を手にしたまま答えた。
「少なくとも、私は会っていません」
断定はしなかった。
透もそれ以上は訊かなかった。
※
黒瀬が刈払機を動かし始めたので、透は軽トラックにあった熊手を取った。
「手伝います?」
楓が訊く。
透はもう一本を渡した。
「あるから」
「その理由、前にも聞いた気がします」
楓は受け取り、道路側へ向かった。
三人でしばらく草を片づけた。
黒瀬が刈ったところから土が見え始める。
柿の木の下には小さな青い実が一つ落ちていた。
透が拾おうとすると、黒瀬が言った。
「まだ渋いですよ」
「食べません」
「なら結構です」
透は実を木の根元へ戻した。
※
作業を終えるころには、日がかなり傾いていた。
黒瀬は機械を荷台へ戻した。
楓が金網の外から空き地を見る。
「この土地、どうするんですか」
黒瀬は軍手を外した。
「今のところ、何も」
「売らない?」
「その予定はありません」
「ずっと空き地に?」
黒瀬は答えず、門を閉めた。
南京錠を掛けてから言う。
「名簿のことは、お父さまから聞きました」
楓の顔が上がる。
「戻せるか調べてます」
「そうですか」
黒瀬は一度、頭を下げた。
「お願いします」
楓はすぐには返さなかった。
やがて「はい」とだけ言った。
※
帰り道、祭りの提灯が見えるところまで来ると、太鼓の音が戻ってきた。
楓は歩きながら言った。
「黒瀬さん、あの土地ずっと手入れしてたんですね」
「ああ」
「誰にも言わずに」
透は返さなかった。
黒瀬が何を考えて買ったのか、全部聞いたわけではない。
草を刈り、柿の木を残している。
今わかるのはそれだけだった。
商店街の入口で楓と別れた。
※
便利堂へ戻ると、千鶴が机で伝票をまとめていた。
「遅いです」
「ごめ――」
そこで声が詰まった。
千鶴が顔を上げる。
透は言い直すのをやめた。
「店番ありがとう」
「どういたしまして」
千鶴もそれ以上触れなかった。
「何かわかりました?」
「二十七番、黒瀬さんの土地だった」
「黒瀬さん?」
「ああ」
透は楓から借りた地図を机へ広げた。
「昔は家があった。今はない」
「住んでた人は?」
「まだわからない」
千鶴は地図を少し見てから、伝票を横へ寄せた。
透は二十七番の位置をもう一度確認し、紙を閉じた。
店の外では、太鼓の練習が続いていた。




