第46話 元気なうちに
梅雨が明けると、町の音が変わった。
朝から蝉が鳴き、商店街には祭りの提灯が少しずつ増えている。便利堂の前を通る子どもたちは帽子を深くかぶり、日陰のある側を選んで歩いていた。
春に氷見家で見た四世帯については、楓と義信が調べている。
透も名前は控えてあるが、新しくわかったことはまだなかった。
その日の午前中は、便利堂の裏で古い扇風機を分解していた。
首を振るたびに金属が擦れる音がする。千鶴は外した羽根を雑巾で拭いていた。
「これ、買い替えたほうが早くないですか」
「持ち主にも言った」
「じゃあ、なんで直してるんです?」
「三十年使ってるから捨てたくないって」
千鶴が羽根を光へ向けた。
「三十年なら、家電というより家族ですね」
「それ本人に言って」
透が軸へ油を差していると、表の戸が開いた。
「ごめんください」
女性の声だった。
千鶴が先に立ち上がる。
※
店へ入ってきたのは、小柄な老女だった。
薄手のカーディガンを羽織り、小さな布鞄を両手で持っている。
透が工具を置くと、老女は古い看板を見上げた。
「ここ、榊便利堂で合っとるね」
「はい」
「榊さんは?」
「俺です」
老女は透の顔をしばらく見た。
「ほんまに孫やね」
「爺さんを知ってるんですか」
「顔はよう知っとるよ」
老女は布鞄を持ち直した。
「宮下ハルです」
透は名前を覚えていた。
浦上ノブから聞いた、昔からの友人だ。
「ノブさんの」
「友達」
ハルが先に言った。
「ノブから聞いたんよ。今は孫が店やっとるって」
透は来客用の椅子を出した。
千鶴が茶を淹れるあいだ、ハルは店内を見回した。棚や古い柱を眺め、最後に壁際の工具箱へ目をやる。
「昔とそんな変わらんね」
「来たことあるんですか」
「ずっと前にな」
それ以上は話さなかった。
※
千鶴が茶を置くと、ハルは礼を言って湯呑みに手を添えた。
「今日は何のご依頼です?」
透が訊く。
「便利屋のほうやないんよ」
透はハルを見る。
「預かり屋ですか」
「そう」
千鶴は空になった盆を持って奥へ下がった。
「誰か亡くなったんですか」
「まだ死んどらんよ」
ハルは茶を一口飲んだ。
「わたしの話」
透は椅子へ座り直した。
「死ぬとき、来てもらいたいんですか」
「来られるならね」
生きているうちに頼みに来る人は、これまでもいた。
「病気です?」
「歳は取っとる」
「余命を言われたとか」
「なんもない」
ハルは手を振った。
「今日も歩いてここまで来たんよ」
「じゃあ、どうして今?」
「歩いて来られるうちに頼んどこうと思って」
透は頷いた。
「呼ばれたとき、俺が動ける状態なら行きます」
「それでええ」
ハルはあっさり答えた。
※
「届け先は決まってます?」
透が訊くと、ハルの指が湯呑みの縁で止まった。
「決まっとる」
「今、聞いておけますか」
「それはまだ言わん」
「探すのに時間がかかる人だと困ります」
「たぶん、探してもらうことになる」
透はハルを見る。
「なら、余計に先に聞きたいんですけど」
「せやけど、今は言わん」
声は変わらなかった。
透はしばらく待ったが、ハルから続きを話す様子はない。
「期限は七日です。それは知ってます?」
「知っとる」
「預かれるのは一つだけです」
「それも知っとるよ」
「誰から?」
ハルは茶を飲んだ。
「昔から、この町におるからね」
答えはそこまでだった。
透も追わなかった。
※
ハルは布鞄から紙を一枚取り出した。
住所と電話番号が書かれている。
「娘と住んどる。何かあったら、この番号から電話が来ると思う」
透は受け取った。
「言葉も、そのときですか」
「そのとき」
「宛先も?」
「そう」
「忘れてませんよね」
「まだ大丈夫」
ハルが笑った。
立ち上がってから、もう一度店の中を見た。
「榊さん」
「はい」
「ノブは元気やった?」
「元気でしたよ」
「そう」
ハルはそれだけ聞くと、布鞄を持って戸へ向かった。
透は店先まで見送った。
真昼の日差しの中を、ハルは急がず商店街のほうへ歩いていった。
※
店へ戻ると、千鶴が扇風機の前に座っていた。
「予約でした?」
「ああ」
「元気そうでしたね」
「本人もそう言ってた」
透はハルから受け取った紙を机の引き出しへ入れた。
まだ預かった言葉はない。
千鶴が扇風機の羽根を取り付ける。
「相手は聞いたんですか」
「言わないって」
「またですか」
「今回は探すことになるらしい」
「七日なのに?」
「だから先に聞きたかったんだけどな」
透が前面のカバーを留め、電源を入れる。
羽根が回り始めた。
しばらく首振りをさせても、金属音はしなかった。
「直りましたね」
「たぶん」
「そこは言い切ってくださいよ。お客さんに返すんですから」
透はもう少し動かしてから電源を切った。
※
夕方、梶が茄子を持ってきた。
スーパーの袋いっぱいに入っている。
「多くないですか」
「もろた」
「全部?」
「いらん言うたら、持ってけ言われた」
「減らす交渉に失敗してますよ」
梶は聞こえないふりをして、茄子を台所へ運んだ。
透は修理した扇風機のコードをまとめながら言った。
「今日、宮下ハルさんが来ました」
梶が冷蔵庫を開けたまま止まる。
「ハルさん?」
「知ってます?」
「顔くらいはな」
「預かり屋の予約でした」
「そうか」
梶は茄子を冷蔵庫へ入れた。
それだけで話を終わらせようとする。
透は工具箱を閉じた。
「梶さん」
「なんや」
「前に爺さんが言ってたこと、覚えてます?」
「何をや」
「届かなかった言葉のこと」
梶は冷蔵庫の扉を閉めた。
「急になんや」
透自身にも、ハルの来訪からなぜそこへ考えが移ったのか、うまく説明できなかった。
祖父を知る人がまた一人現れたからかもしれない。
「俺が預かり屋になった理由って、聞いたことあります?」
梶はしばらく透を見た。
「ない」
「血筋とか」
「知らん」
返事は早かった。
透が黙っていると、梶は椅子へ座った。
「ただ、一遍だけ、あの人が言うたことはある」
「爺さんが?」
「ああ」
梶は空の湯呑みを引き寄せた。
「届かんかった言葉が、次を作ることがある、ってな」
透は何も言わなかった。
※
「それ、どういう意味ですか」
「知らん」
「梶さん」
「ほんまに知らんのや」
梶は湯呑みへ自分で麦茶を注いだ。
「一回聞いただけや。わしも意味訊いたけど、あの人はそれ以上言わんかった」
「誰かが言葉を届けられなかったら、その人が預かり屋になるってこと?」
「せやから、知らん言うてるやろ」
透は椅子へ座った。
桑島の言葉を腐らせたのは、ずっと後だ。
その前から透は言葉を預かっていた。
「俺には合わないですよね」
梶は麦茶を飲んだ。
「わしに聞くな」
「爺さんから、俺について何か聞いてません?」
「聞いてへん」
今度も返事は早かった。
梶は湯呑みを置き、台所を指した。
「それより茄子、明日には使えよ」
「多すぎます」
「千鶴に持たせろ」
話はそこで終わった。
※
店を閉める前、透は机の引き出しを開けた。
宮下ハルの連絡先が入っている。
まだ何も預かっていない。
期限も始まっていなかった。
透は紙を確認して、引き出しを閉めた。
表では祭りの練習が始まったらしく、遠くから太鼓の音が聞こえていた。




