第45話 消した名前
三日目の夕方、透は楓と一緒に氷見家へ向かった。
朝に預かった封筒は、鞄の中に入っている。
祭礼時緊急対応世帯一覧。
表題だけは見た。
中はまだ開いていない。
義信が、自分が帰ってから来いと言ったからだった。
「父が自分から何か見せるなんて珍しいです」
隣を歩く楓が言った。
「昔から?」
「都合悪いことほど黙る人です」
「似てるな」
「誰にです?」
透は答えなかった。
楓が横から睨んだ。
春の夕方はまだ明るい。商店街を抜けるころには、夕食の匂いが家々から漂い始めていた。
氷見家へ着くと、義信は居間で待っていた。
座卓の上には、もう一つ封筒が置いてある。
透が朝の封筒を差し出した。
「これ」
「ああ」
義信は受け取り、中の紙を出した。
古い名簿だった。
「座ってくれ」
透と楓が向かいへ座る。
義信はしばらく紙の端を揃えていた。
昨日まで、久保田の言葉を聞くことさえ拒んでいた男だった。
今日は自分から二人を呼んだ。
「久保田さんは」
義信が言った。
「あのころ、住民課長やった」
楓が父を見る。
「お父さんは?」
「係長」
図書館で確認したものと同じだった。
上司と部下。
義信は古い名簿を開いた。
「祭りの前になると、役場でも当日の対応表を作っとった。道が狭いところ、足の悪い人がおる家、天気が崩れたときに見に行くところ。そういう家をまとめたもんや」
透は頁を見る。
住所と世帯主の名前。その横に短い備考が並んでいる。
手書きの部分も多い。
「これを作ったのが?」
「俺や」
義信は指を置いた。
「担当は俺やった」
楓は何も言わない。
義信が次の紙を出した。
同じ表題。
だが、紙の色が違う。
こちらは役場で正式に保管されていたものを、あとから複写したらしい。
透は二つを並べた。
最初は違いがわからなかった。
一枚ずつ比べる。
住所。
名前。
備考。
途中で、頁のつながりがおかしいことに気づいた。
古いほうにはある行が、新しいほうにはない。
その次も。
もう一つ。
さらにもう一つ。
「四つ?」
透が言った。
義信が頷いた。
楓が身を寄せる。
「四世帯、なくなってる」
元の紙には確かに載っている。
後から残された名簿には、一行もない。
削除の線さえなかった。
最初から存在しなかったように、前後の頁が組み直されている。
「綴じ直したんですか」
透が訊いた。
「ああ」
義信の返事は短かった。
「誰が」
義信はすぐには答えなかった。
楓が父の顔を見る。
「父さん?」
「俺や」
部屋の時計が一度鳴った。
楓の視線が名簿へ落ちる。
「何で」
義信は両手を膝へ置いた。
「避難したことになったからや」
透は顔を上げた。
「なった?」
「確認できてへんかった」
義信は言った。
「連絡がつかんかった。現場へ行った人間も、全員を確認したわけやない。それでも翌朝、対応済みにした」
「どうして」
義信は答えなかった。
代わりにもう一つの封筒を開けた。
中には、鉛筆で書かれた作業メモが入っていた。
四つの住所。
それぞれの横に丸がついている。
その下に、短く書かれていた。
避難済として整理。
筆跡は、久保田のものだという。
透は紙を見た。
「あれは俺が決めた」
喉の奥に残る久保田の声が、わずかに動いた。
義信は気づいたらしい。
「まだ言わんでくれ」
透は口を閉じた。
義信が続ける。
「久保田さんが決めた。それはほんまや」
楓は父を見た。
「じゃあ、お父さんは言われたとおりにやっただけ?」
義信の顔が少し歪んだ。
「そう言うたら、楽やろな」
昨日と同じ言葉だった。
聞いたら楽になってしまう。
今なら意味がわかった。
久保田が最後に言おうとしているのは、自分が決めたという事実だった。
それを聞けば、義信は上司の指示に従っただけだと思える。
少なくとも、そう思う逃げ道ができる。
「でもな」
義信は楓を見た。
「綴じ直したんは、俺の手や」
楓は何も言わなかった。
「名前を消したんも俺や。久保田さんが横に立っとったからいうて、俺の指が勝手に動いたわけやない」
義信は名簿へ手を置いた。
「四つの名前を一つずつ見ながら、新しい紙には書かんかった」
透は黙って聞いた。
「そのとき、嫌やったら止められた。確認できてませんって言えた。せめて保留にしてくださいって言えた」
義信の指が、一つの行の上で止まった。
「言わんかった」
楓が小さく息を吸った。
「怖かった?」
父親へ向けた声だった。
役場の職員ではない。
義信は娘を見た。
「たぶんな」
「何が」
「大ごとになるのが」
答えは、それだけだった。
誰かに脅されたわけではない。
悪い人間がいて、無理やりやらされたわけでもない。
もう祭りは終わった。
町は混乱していた。
確認できていない家がある。
それを残せば、責任の所在を調べなければならない。
義信は、その場を早く終わらせるほうを選んだ。
透は名簿に残る四つの行を見た。
文字は小さい。
紙の上なら、一行ずつしか場所を取らない。
消すのにも、それほど時間はかからなかったはずだ。
「この人たちは?」
透が訊いた。
義信は首を横へ振った。
「今もわからん」
「避難してたかどうかも?」
「確認できてへん」
四つの世帯。
その後どうなったのか、役場にも確かな記録がない。
だから消したことそのものが、終わりにはならなかった。
名簿からなくなっただけだった。
「この紙、どうして持ってたんですか」
透が古いほうを指した。
「捨てられんかった」
義信が答えた。
「新しいのを作ったあと、古いほうは処分することになっとった。けど、これだけ持って帰った」
「十五――」
透は言いかけてやめた。
長いあいだ、義信はこの紙を家に置いていた。
誰にも見せず。
捨てもせず。
「お母さんは知ってるの?」
楓が訊いた。
「知らん」
楓は名簿を見る。
「ずっと一人で持ってたの」
義信は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
楓は父を責めなかった。
慰めもしなかった。
ただ、古い紙の一番上を指で押さえた。
「これ、もう戻せないの?」
義信が娘を見る。
「何を」
「名前」
義信の顔が止まった。
「消したなら、戻せないの?」
「簡単な話やない」
「簡単じゃなくても」
楓は父から目を逸らさなかった。
「いなかったことにしたままよりは、いいでしょ」
義信の口が少し開いた。
言葉は出なかった。
透は二人を見ていた。
久保田の言葉を届けるのは、自分の仕事だ。
だが、この家で今起きていることは預かり屋の仕事ではない。
生きている娘が、生きている父へ言っている。
だから、口を挟まなかった。
しばらくして、義信が古い名簿へ目を落とした。
「調べるところからやな」
楓が頷いた。
「私もやる」
「お前は関係ない」
いつもの言葉だった。
だが楓は今度、すぐに返した。
「私、役場の人間だから」
義信が顔を上げる。
「家族だからじゃなく?」
「両方」
楓はそれだけ言った。
義信が初めて、少しだけ笑った。
笑ったというより、口元から力が抜けただけだった。
※
透は名簿を閉じた。
「義信さん」
義信がこちらを見る。
「まだ、聞きませんか」
久保田の言葉。
義信はすぐには答えなかった。
古い名簿を見る。
娘を見る。
それから、自分の両手を見た。
「昨日までは」
静かに言った。
「聞いたら、あの人に全部持っていってもらうことになると思っとった」
透は待った。
「でも先に、自分の分は言うた」
義信は楓を見る。
「名簿を直したのは俺や」
楓は小さく頷いた。
義信は透へ向き直った。
「聞く」
喉の奥にあったものが持ち上がった。
今度は止められない。
久保田の声が、そのまま透の口から出た。
「あれは俺が決めた」
義信は目を閉じた。
それだけだった。
泣かなかった。
返事もしなかった。
ただ長く息を吐いた。
言葉が、透の中から消えた。
届いた。
義信はしばらく目を閉じていた。
やがて、小さな声で言った。
「知っとる」
誰に返したのか、透にはわからなかった。
久保田へか。
自分へか。
名簿の上に残った四つの名前へか。
義信が目を開く。
「知っとるよ、久保田さん」
声はそれ以上続かなかった。
楓が父の前に湯呑みを置いた。
中身はもう冷めている。
義信はそれを両手で持った。
飲みはしなかった。
楓も何も言わず、隣に座った。
透は時計を見る。
三日目。
七日には、まだ時間が残っていた。
けれど仕事は終わった。
聞かせたからではない。
義信が、自分の言葉を先に口にしたからだった。
※
便利堂へ戻る途中、楓が追いついてきた。
「榊さん」
透は振り返った。
「お父さんは?」
「名簿見てます」
「一人で大丈夫?」
「今は」
楓は透の隣まで来た。
手には、古い名簿のコピーが一枚あった。
「これ、父から」
「俺に?」
「榊さんにも持っててほしいって」
透は受け取った。
四つの世帯が載っている頁だった。
名前を一つずつ読んだ。
どれも知らない。
なのに、知らないということ自体が妙だった。
この町に住んでいて、町の古い話をこれだけ調べても、一度も聞いたことがない。
「楓」
「はい」
「この人たち、探す?」
楓はすぐには答えなかった。
少し先で、役場の建物が見えている。
「探します」
声は小さかった。
「役場の記録として?」
「それもあります」
楓はコピーを見る。
「でも、名前を消したのが父なら、戻すところまで見たいです」
透は紙を折らなかった。
そのまま鞄へ入れた。
町から消えたのではない。
紙から消された。
それなら少なくとも、紙の上には戻せるかもしれない。
春の風が、二人の間を抜けた。
透は初めて知った四つの名前を、もう一度頭の中で読んだ。
今度は、消えないように。




