第44話 楽になる
二日目の夕方、透はもう一度氷見家を訪ねた。
昨日と同じ時間だった。
門の前には楓がいた。
「来ると思ってました」
「言っただろ」
「父もわかってます」
楓は玄関へ視線を向けた。
「朝から機嫌悪いです」
「俺のせい?」
「半分くらい」
「残りは?」
「たぶん自分に」
透は返さなかった。
久保田重一の言葉は、まだ喉の奥にある。
あれは俺が決めた。
昨日は最初の三文字ほどしか出せなかった。義信が聞くことを拒んだ瞬間、言葉は止まり、そのまま透の中へ戻った。
期限は七日。
今日は二日目だった。
楓が戸を開ける。
「父さん。榊さん来たよ」
奥から返事はなかった。
居間へ入ると、義信は座卓の前に座っていた。
テレビはついているが、音が消されている。
「また来ました」
透が言うと、義信は顔を上げた。
「帰ってくれ」
「まだ何も言ってません」
「言わんでええ」
昨日と同じだった。
怒鳴らない。
目も逸らさない。
ただ、受け取らない。
透は座らなかった。
「久保田さん、俺を病院に呼びました」
義信の眉がわずかに動いた。
「死ぬ前に、自分でです」
反応はそれだけだった。
「偶然俺が居合わせたわけじゃない。久保田さんは、最後に預かり屋を呼んだ」
「……そうか」
初めて義信が返事をした。
透は一歩だけ近づいた。
「それでも聞きませんか」
「ああ」
「何を言うか、わかってるんですか」
義信は少し黙った。
「知らん」
「なら」
「知らんから聞かん」
透には意味がわからなかった。
楓も同じだったらしい。
「父さん、それおかしくない?」
義信が娘を見る。
「お前は黙っとれ」
「昨日からそればっかり」
「楓」
「だって、久保田さんはお父さんに何か言いたくて榊さんを呼んだんでしょ」
義信の表情が初めて崩れた。
怒ったというより、痛いところに触れられたようだった。
「だからや」
楓が口を閉じた。
義信は透を見た。
「榊さん。あんた、その言葉の中身は知らんのやな」
「知りません」
「意味も」
「考えないようにしてます」
義信が小さく頷いた。
「先代と同じや」
今度は透のほうが止まった。
「爺さんを知ってるんですか」
「町に長くおったら知っとる」
それ以上は話さなかった。
義信は座卓へ視線を落とす。
「久保田さんはな、昔からそういう人やった」
「どういう人です」
「最後になると、自分で全部持っていこうとする」
透は黙った。
「あの人が何を言うかは知らん。ただ、だいたい想像はつく」
義信の手が膝の上で握られた。
「聞いたら、俺が楽になってしまう」
部屋が静かになった。
楓は父を見ている。
透もすぐには言葉が出なかった。
「楽になったら駄目なんですか」
義信は笑わなかった。
「駄目や」
「なんで」
「俺が決めることやないからや」
義信はそこで口を閉じた。
透には、わからなくなった。
聞くかどうかを決めるのは義信だ。
なのに義信は、自分には決められないと言う。
「久保田さんに許されるかどうかってことですか」
義信の目が透へ向いた。
「許すとか許さんとか、そういう話にしたくない」
声が少し低くなった。
「死ぬ間際の人間に一言言われて、それで何十年も前のことが終わるなら、簡単すぎる」
楓が息を呑んだ。
透は義信の言葉だけを聞いた。
具体的なことは何も話していない。
それでも、久保田と義信の間に、長い時間そのまま残っているものがある。
昨日より、それだけはわかった。
「じゃあ、どうすればいいですか」
透が訊いた。
義信はすぐに答えなかった。
「持っとってくれ」
「期限まで?」
「ああ」
「最後まで聞かないかもしれない?」
「そのつもりや」
透は喉に残る言葉を意識した。
あと五日。
預かった人はもういない。
届ける相手は目の前にいる。
それでも距離は縮まらない。
「明日も来ます」
「来んでええ」
「俺の仕事なんで」
義信はため息をついた。
「頑固やな」
「よく言われます」
「誰に」
「梶さんとか」
楓が少しだけ笑った。
義信の口元も一瞬動いた。
それでも、言葉は受け取らなかった。
※
氷見家を出ると、楓もついてきた。
今日は「送る」とは言わなかった。
二人でしばらく歩いた。
春になって日が長くなったとはいえ、商店街にはもう灯りがついている。
「榊さん」
「うん」
「父、久保田さんのこと知ってましたね」
「ああ」
「たぶん仕事ですよね」
「役場?」
楓が頷いた。
「家で久保田って名前、聞いたことある気がします」
「いつ」
「子供のころ」
透は歩きながら楓を見る。
「覚えてる?」
「名前だけです」
楓は少し考えた。
「父の昔の上司だったような」
透は足を止めなかった。
「確認できる?」
「職員の昔の配置なら、公開されてる資料があります。人事異動の記事とか」
「見ても問題ない?」
「そこなら」
楓は透の顔を見た。
「その先は別です」
「わかってる」
「榊さん、最近ちゃんと学習しましたね」
「前からしてる」
「そういうことにしときます」
駅前で楓と別れた。
透は便利堂へ戻らず、そのまま図書館へ向かった。
閉館まで一時間ほどあった。
※
町の広報は、年度ごとにまとめて保管されていた。
職員の異動記事を探すだけなら難しくない。
久保田の名前はすぐ見つかった。
住民課長。
その下に並ぶ名前の中に、氷見義信がいた。
係長。
透は紙へ二つの名前を書いた。
久保田重一。
氷見義信。
同じ課。
上司と部下。
ここまでは事実だった。
もう一冊だけ前年の広報を確認する。
同じ配置だった。
翌年度の号では、久保田の名前が消えている。
退職。
義信は別の部署へ異動していた。
透はそこで資料を閉じた。
これ以上は、今夜やることではない。
久保田が死ぬ前に何を背負っていたのか。
義信がなぜその言葉を拒むのか。
二人が同じ役場で働いていたことだけでは、答えにならない。
ただ一つ、義信の言葉だけが残った。
聞いたら楽になってしまう。
人は普通、苦しいものから逃げたいと思う。
義信は逆だった。
苦しいままでいることを選んでいる。
その理由を知らなければ、久保田の言葉を無理に押し込むことはできない気がした。
※
三日目の朝。
楓が便利堂へ来た。
役場へ行く前だった。
手には古い封筒を持っている。
「これ、家にありました」
「何?」
「父のです」
透は受け取らなかった。
「勝手に持ってきて大丈夫?」
「父に聞きました」
「見せていいって?」
「榊さんになら、って」
昨日まで聞くことすら拒んでいた男が、自分から何かを出した。
透は封筒を受け取った。
中には一枚の古い紙が入っていた。
役場の書類だった。
表題だけ読む。
祭礼時緊急対応世帯一覧。
透の指が止まった。
「これ、何の名簿?」
楓は首を横へ振った。
「父は、中を見せればわかるって」
透はまだ開かなかった。
「本人は?」
「仕事から帰ったら来いって」
「俺に?」
「はい」
楓は少し間を置いた。
「昨日よりは、話す気になったみたいです」
透は封筒を見る。
言葉はまだ喉の奥にある。
三日目。
あと四日。
受け取ってはいない。
それでも昨日まで閉じていた扉が、ほんの少しだけ開いた。
透は封筒を机へ置いた。
久保田の言葉を届ける前に、義信自身の言葉を聞く必要がありそうだった。




