第43話 聞かない
冬のあいだ閉めていた窓を、町のあちこちで開けるようになった。
便利堂の仕事も少し変わる。
雨戸の調整より網戸の張り替えが増え、庭木に掛けた霜よけを外してほしいという電話も入るようになった。朝からストーブを使わない日もある。
その日の午後、透は便利堂の裏で網戸を張り替えていた。
千鶴が外した古い網を丸めている。
「これ、捨てていいんですよね」
「いいよ」
「何かに使えません?」
「何に」
千鶴は丸めた網を見る。
「梶さんなら使いそうですけど」
「何に使うんだよ」
「そこまでは知りません」
透が押さえゴムを溝へ入れていると、店の電話が鳴った。
千鶴が中へ入る。
しばらくして戸口へ戻ってきたときには、さっきまでの調子が消えていた。
「透さん」
透はローラーを止めた。
「病院に来てほしいって。電話は奥さんからです」
「誰の?」
「久保田さん。久保田重一さん」
名前には覚えがあった。
昨年、物置の戸を直した。その前には庭の柿の枝を落としている。
「どうした?」
「倒れて運ばれたそうです。本人が、榊さんを呼んでくれって」
透は手袋を外した。
※
病院の廊下では、久保田の妻が待っていた。
透を見ると立ち上がり、頭を下げた。
「急にすみません」
「久保田さんは?」
妻が病室の扉を見る。
「先生には、今夜どうなるかわからんと言われました」
昼までは家にいたという。
急に具合を悪くし、救急車で運ばれた。搬送される途中にはまだ話ができていて、そのとき妻へ榊便利堂に電話するよう頼んだ。
「理由は聞きました?」
「聞いても、あとでええって」
妻は小さく息を吐いた。
「昔からそうなんです。肝心なことほど、あとでええって言う人で」
透は病室へ入った。
※
久保田はベッドに横になっていた。
妻が耳元で声をかける。
「お父さん、榊さん来てくれたよ」
しばらくして瞼が開いた。
透を見つけると、久保田の口元が少し動く。
「……来たか」
「はい」
久保田は妻へ目を向けた。
「悪いけど……ちょっと外してくれ」
妻は理由を訊かなかった。
布団の端だけ直して、病室を出る。
透はベッド脇の椅子へ座った。
「俺を呼んだの、便利堂の仕事じゃないですよね」
久保田はゆっくり頷いた。
「榊さんとこの……もう一つや」
「預かり屋」
もう一度、頷く。
町に長く住んでいれば知る機会はある。透はどこで聞いたのかまでは訊かなかった。
「誰に届けます?」
久保田は目を閉じた。
呼吸を二度してから、名前を口にした。
「氷見……義信」
透は聞き返す。
「氷見義信さん」
「そうや」
聞き覚えのある名前だった。
楓の父親が、たしか同じ名前だった。
「わかりました。預かります」
久保田が目を開いた。
透を見てから、息を整える。
「あれは……俺が決めた」
その声と一緒に、胸の内側へ重みが入った。
透は動かずに待った。
久保田の呼吸が落ち着いたところで言う。
「預かりました」
「……そうか」
久保田は目を閉じた。
しばらくして、もう一度だけ口が動いた。
「遅かったな」
それは預かった言葉ではなかった。
何について遅かったのか、透は訊かなかった。
※
廊下へ出ると、妻が立ち上がった。
「終わりました?」
「はい」
「何を頼んだんです?」
透は首を横へ振った。
妻は透を見たあと、「そうですか」とだけ言った。
「来てくれて、ありがとうございました」
久保田が亡くなったという連絡は、その日の夕方に入った。
※
便利堂へ戻った透は、久保田の名前と預かった日、それから宛先として氷見義信の名を控えた。
千鶴が机の向こうから覗く。
「氷見って」
「ああ」
「楓さんのお父さん?」
「確認する」
透は役場へ電話をかけた。
楓はまだ職場にいた。
『はい、氷見です』
「楓。今大丈夫?」
『もう終わるところです。どうしました?』
「お父さん、義信さんで合ってる?」
短い間があった。
『そうですけど』
「今、家にいる?」
『いると思います』
「今日、会いたい」
電話の向こうが静かになった。
『父が何か?』
透は答えを選んだ。
「俺から話す」
さらに少し間が空く。
『預かり屋ですか』
透は否定しなかった。
『わかりました。私も帰ります』
「楓は来なくていいよ」
『私の父です』
それだけ言われ、電話が切れた。
※
氷見家へ着くと、楓が玄関の前にいた。
役場からそのまま帰ってきたらしく、仕事用の服のままだった。
「中にいます」
「俺が来る理由は?」
「何も。透さんが会いたいって言ってる、とだけ」
「ありがとう」
楓が戸を開けた。
居間では、一人の男が新聞を畳んでいた。
白いものの混じった髪に、楓と似た目元がある。
「榊便利堂の」
「榊透です」
義信が立ち上がった。
透は居間へ入った。
二人の距離が近づいた途端、胸の内側にあった久保田の言葉が持ち上がった。
喉が勝手に開く。
「あれは――」
「聞かん」
義信の声が重なった。
そこで止まった。
喉の奥には、残りがある。
久保田の言葉は消えていない。
透は息を整えた。
義信はこちらを見たままだった。
「久保田重一さんが、今日亡くなりました」
義信の顔は動かなかった。
楓が父を見る。
「久保田さん?」
義信は答えない。
「義信さん宛てに、最期の言葉を預かってます」
「聞かんと言うた」
「まだ残ってます」
「持って帰ってくれ」
声は荒くなかった。
それでも、もう一歩近づける感じはなかった。
※
「父さん」
楓が呼んだ。
義信は娘を見なかった。
「久保田さんって誰?」
「お前には関係ない」
「透さんがうちまで来てるのに?」
「楓」
それだけで、楓は一度口を閉じた。
透は二人の間には入らなかった。
もう一度義信を見る。
「今日は帰ります」
楓が透へ顔を向けた。
「透さん」
「言葉はまだ残ってる」
義信にも聞こえるように言った。
「期限までは、また来ます」
義信は返事をしなかった。
※
玄関を出ると、楓が追ってきた。
門のところで透を呼び止める。
「久保田さん、父の知り合いなんですよね」
「たぶん」
「あんな父、初めて見ました」
透は答えなかった。
楓は家の窓を見た。
「何を預かったかは、訊いても駄目ですよね」
「ああ」
「わかってます」
少し間を置いて、楓が続ける。
「父が何を隠してるのか、自分で調べてもいいですか」
「止めないよ」
「透さんは?」
「俺も調べる」
楓がこちらを見る。
「役場のことなら、できる範囲は手伝います」
「家族だからって、無理するなよ」
「家族だからです」
言い方はいつもの楓のままだった。
透はそれ以上言わなかった。
※
便利堂へ戻ると、梶がストーブを片づけていた。
「もうええやろ、これ」
「まだ寒い日ありますよ」
「そんときまた出せ」
透は上着を脱いだ。
梶がコードをまとめるのを見ながら訊く。
「梶さん」
「なんや」
「届け先に、聞かんって言われました」
梶の手が止まった。
「出たんか」
「途中まで」
「残りは?」
透は胸の内側を確かめた。
久保田の言葉はまだある。
「残ってる」
梶がまたコードを巻き始めた。
「ほな、終わってへんな」
「こういうこと、爺さんにもありました?」
「知らん」
梶はあっさり答えた。
「聞きたない言う人はおったかもしれん。わしが全部見とったわけやないからな」
透は頷いた。
わからないものを、梶にルールとして決めさせる必要はなかった。
机には久保田の名前を書いた控えがある。
透はその横へ、義信が受け取りを拒んだことだけを書き足した。
翌日の午前には、網戸の張り替えが一件入っていた。




