第42話 生きているうちに
黒瀬から連絡が来たのは、三日後だった。
便利堂は朝から雨樋の修理が二件続き、透が戻ったころには冬の日が傾き始めていた。
千鶴はストーブの前で濡れた手袋を乾かしながら、机の上の電話メモを指した。
「黒瀬さんです。帰ったら電話くださいって」
「何時ごろ?」
「四時前です」
「用件は?」
「榊さんに直接話すって」
透がかけ直すと、黒瀬は十六年前の話の続きだと言った。
「一度、見ていただきたい場所があります」
今からでも構わないというので、透は上着を着た。
十六年前、黒瀬は死んだ友人から「あとは頼む」と受け取った。そして十五年前から、自分が死ぬときに残したい言葉があるという。
その間に何があったのかを、黒瀬は少しずつしか話さない。
今日は、その続きを自分から見せると言った。
「暗くなりますよ」
「近いらしい」
「足元だけ気をつけてくださいね」
千鶴に見送られ、透は店を出た。
※
黒瀬が待っていたのは、町の河岸側を走る古い道だった。
役場で見た陳情書に記されていた場所で、片側には低い護岸が続いている。
冬の水面は暗く、風が吹くたび細かな波が岸へ寄った。
黒瀬は幅のあるコンクリートの側溝の前に立っていた。蓋も周囲の舗装も新しくはないが、道そのものより後から手を入れたことはわかる。
「十六年前は、こんなものではありませんでした」
「もっと細かった?」
「ええ。雨が続けば、すぐに溢れました。あの人は何度も役場へ言っていた」
十六年前に亡くなった男は、黒瀬を紹介議員として道路と排水設備の改修を求める陳情を出していた。議会では継続審査となり、その途中で本人が亡くなっている。
「あの人が死んで、先代から言葉を受け取りました」
「『巌。あとは頼む』」
「はい。私は、ここのことだと思いました」
だから黒瀬は陳情を残した。ところが翌年、その陳情は取り下げられている。
透が理由を訊くと、黒瀬は水面を見たまま答えた。
「事故のあと、町が別の緊急改修を決めました。あの人の陳情は、その時点で役目を失った」
「だから取り下げた?」
「はい。遅かったからです」
「何が」
「全部です」
黒瀬は足元の側溝へ視線を落としたまま、しばらく次の言葉を探していた。
やがて「あの人が心配していたことは、翌年に起きました」と言った。
翌年。十五年前。
透が黙っていると、黒瀬はもう一つだけ先へ進んだ。
「八月十五日の祭りの日です」
透の胸の奥が重くなった。その日付は忘れようがない。両親が死んだ日だった。
「天気は前の日から悪かった。止める話も出ていました」
「祭りを?」
「ええ」
「それで?」
黒瀬の声は変わらない。ただ、言葉と言葉の間だけが長くなった。
「止めなかったのは、私です」
風が護岸を抜け、水面を押した。
透は黒瀬の横顔を見たが、そこに言い訳を探すような表情はなかった。
「総代だったから?」
「ええ。当時、氏子会の総代を務めていました」
「どうして止めなかったんです」
「長く準備してきた。人も集まっている。少しくらいなら持つ。そう考えました」
黒瀬はそこで初めて透を見た。
「人は、間違えるときほど大きな理由を持っているわけではありません。あと少し。せっかくここまで。去年も大丈夫だった。そんな言葉を重ねて、一つずつ戻れなくなる」
十五年前の町は、透の中でところどころ切れている。
無理に思い出そうとすると、手を伸ばした先だけが空白になる。
だから今は、黒瀬の言葉だけを聞いた。
「俺の親が死んだこととも、関係あるんですよね」
「あります」
「どこまで」
「そこから先は、私一人の話ではありません」
腹は立った。それでも、黒瀬が逃げているわけではないこともわかってきていた。
自分だけで話せることと、他人まで巻き込むことを分けている。
「じゃあ、なんで今日はここまで話したんですか」
「先日、榊さんに言われなかったからです」
「何を」
「生きているうちに言えばいい、と」
「言ってません」
「ええ。言われてはいません」
黒瀬がわずかに笑った。
「ですが、そういう顔をされていました」
透は返さなかった。実際、言おうとは思っていた。
十五年前から残したい言葉が決まっているなら、なぜ今言わないのか。
死ぬまで待ってから預かり屋へ回す理由が、ずっと引っかかっていた。
黒瀬は再び水面へ向き直った。
「私は十六年前、死んだ人から『あとは頼む』と言われました。それから一年も経たずに、頼まれたことを間違えた」
「それで、この側溝は?」
「直ったのは十四年前です」
透は数字を頭の中で並べた。
十六年前に友人が死んだ。
十五年前に何かが起きた。
十四年前に、道路と排水設備が改修された。
間に合わなかったあとで。
「遅いな」
「はい。ずっと、そう思っています」
黒瀬は否定しなかった。
冬の夕方の水音が、二人の間を埋める。
「だから後始末なんですか」
「はい」
「死んだら一言預けて、それで終わり?」
黒瀬は答えなかった。
透は声を荒らげずに続けた。
「それなら、預かり屋を使わないでください。死んでからじゃないと言えないことはあると思います。でも、生きてるうちに言えることまで、こっちに回さないでください」
黒瀬は長いあいだ黙っていた。
やがて怒る代わりに、小さく頭を下げた。
「その通りです」
透は少し間を置いてから訊いた。
「予約、どうしますか」
黒瀬は側溝へ目を落とし、その向こうにある暗い川面を見た。
最初に便利堂へ来たときなら、迷わず残すと言ったのかもしれない。
けれど今は、答えが出るまでに少し時間がかかった。
「取り消します」
透は黒瀬を見る。
「いいんですか」
「ええ」
黒瀬はゆっくり頷いた。
「十六年前から、私は死ぬときに何を残すかばかり考えていました。ですが、その前に言うべきことがある」
風が黒瀬の上着を揺らした。
「生きているうちに言えることは、生きているうちに言います。できる限り」
透は何も言わず、その続きを待った。
「それで最後に何が残るのかは、今の私が決めることではないのでしょう」
その言葉に、透は頷いた。
死ぬ間際に何を言いたくなるのか。
誰に何を残したくなるのか。
今から決めて、それを十五年も抱える必要はない。
そのとき本当に言葉が残るなら、そのとき初めて預ければいい。
「わかりました」
透は上着の内ポケットから手帳を出した。
黒瀬の予約を書いていた欄へ、一本だけ線を引く。
取り消し。
それ以上の理由は書かなかった。
十六年前、五十二歳だった黒瀬は、死んだ友人の一言を受け取って祖父の前で泣いた。
十五年前、五十三歳だった黒瀬は、一つの判断を間違えた。
そして今、六十八歳になった男が、その十五年分を死後の一言だけで片づけないと決めた。
黒瀬の予約は、そこで終わった。
けれど、黒瀬がやるべきことまで終わったわけではない。
むしろ、これからだった。
※
便利堂へ戻ると、千鶴が鍋を温めていた。
戸を開けた音で振り返り、透の顔を見る。
「おかえりなさい」
「ああ」
「寒かったです?」
「川の近くだったから」
上着を脱ぎ、ストーブの近くへ掛ける。
千鶴はそれ以上訊かず、鍋の火を弱めた。透が自分から話すまで待っているらしい。
机には、十六年前の祖父の控え帳が置いたままになっていた。
透は椅子へ座り、欄外に残された黒瀬の名を見る。
死ぬときに来てほしい。
十六年前、黒瀬が祖父へ頼んだことだった。
そのとき黒瀬は五十二歳だった。
翌年、五十三歳のときに祭りを止めなかった。
今は六十八歳。
十五年経っても、あの日の判断を自分の中から消せずにいる。
「何かわかりました?」
千鶴が訊いた。
透は控え帳から顔を上げた。
「十五年前、祭りを止めなかったのは黒瀬さんだった」
千鶴の手が止まる。
「それって……」
「それだけ」
透が先に言うと、千鶴は口を閉じた。
鍋の中で、小さく煮立つ音がする。
「透さんのお父さんとお母さんが亡くなった日ですよね」
「ああ」
「黒瀬さん、知ってるんですか。透さんが――」
「知ってると思う」
少なくとも、祖父の孫であることは知っている。
十五年前の祭りと祖父が関係していることも、黒瀬自身が認めた。
なら、その日に榊家で何があったかを知らないとは考えにくかった。
「怒りました?」
千鶴が訊いた。
透はすぐには答えなかった。
怒っていないと言えば嘘になる。
黒瀬が止めていれば、何かが違ったのかもしれない。
だが、その先をまだ知らない。
知らないところを、自分に都合よく埋めるつもりもなかった。
「まだ、何に怒ればいいのかわからない」
千鶴は少しだけ目を伏せた。
「そっか」
それ以上、慰めるようなことは言わなかった。
透には、それがありがたかった。
千鶴が鍋の蓋を開ける。
「大根です」
「見ればわかる」
「今日も梶さんです」
「それもわかる」
「そろそろ大根以外も覚えてほしいですよね」
「本人に言えよ」
千鶴が笑った。
透も鍋を見た。
こんな日の夜でも、飯は食う。
腹は減る。
明日になれば便利堂の仕事もある。
十五年前の話を聞いたからといって、町の時間が止まるわけではない。
黒瀬も、そうやって十五年生きてきたのだろうと思った。
朝になれば起きる。
仕事をする。
祭りにも関わる。
町の人間に頭を下げる。
その全部を続けながら、自分が止めなかった一日だけを、どこにも置けずに持っていた。
透は祖父の控え帳を閉じた。
「黒瀬さんの予約、どうなったんです?」
千鶴が訊いた。
「取り消した」
「黒瀬さんが?」
「ああ」
千鶴は少し意外そうな顔をした。
「じゃあ、もう行かないんですか」
「今のところはな」
「今のところ?」
透は少し考えてから答えた。
「まだ何も預かってない。死ぬときに何を言いたくなるかなんて、今決めることじゃないって」
千鶴は鍋から大根を一つ皿へ移した。
「じゃあ、前とだいぶ違いますね」
「何が」
「黒瀬さんです」
千鶴は箸で大根を半分に割った。
「最初は、死ぬときのことをずっと待ってるみたいだったから」
透は何も言わなかった。
十六年前、祖父へ入れた予約。
十五年前の間違い。
それから今まで、黒瀬は最後に残す一言を決めたまま生きてきた。
けれど、それでは生きている時間まで、死後のために使うことになる。
「生きてるうちに言えることは、生きてるうちに言うって」
透が言う。
千鶴は頷いた。
「その方がいいと思います」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから、今まで言えなかったんでしょうけど」
千鶴は大根を口へ運んだ。
「でも、まだ生きてるんだから」
透はその言葉を聞きながら、閉じた控え帳へ目を落とした。
黒瀬は生きている。
だから今は、預かり屋より先に本人の番だった。
謝ることがあるなら、自分の口で。
伝えることがあるなら、生きているうちに。
その先で、本当に最後の一言が残るのかどうかは、誰にもわからない。
「食べます?」
千鶴が皿を差し出した。
「ああ」
大根は中まで味が染みていた。
少し煮すぎて、箸を入れるだけで形が崩れる。
透は一口食べてから、棚に戻す前の控え帳を見た。
祖父は、死んだ人の言葉を運んだ。
透も同じ仕事をしている。
けれど今回、黒瀬から運ぶ言葉はなかった。
それでよかった。
透は自分の手帳を開き、線を引いた予約欄を一度だけ確認した。
黒瀬巌。
予約取消。
ただ、それだけ。
日付の先に、新しい約束は書かなかった。
死ぬ日を待つための予約は、もう必要なかった。
透は手帳を閉じた。
黒瀬巌が十六年前から抱えていた約束は、ようやくそこで終わった。
そして黒瀬には、死ぬまでではなく、
明日から使える時間が残っていた。




