第41話 あとは頼む
黒瀬から電話があったのは、翌日の朝だった。
便利堂を開けてまだ三十分も経っていない。透は昨日使った工具を棚へ戻していて、千鶴はストーブの前でコンビニの肉まんを食べていた。
固定電話が鳴り、透が受話器を取る。
「はい、榊便利堂です」
『黒瀬です』
昨日別れたばかりの声だった。
透は工具を持ったまま壁へ背を預けた。
「どうしました」
『昨日のお話ですが』
黒瀬はそこで少し間を置いた。
『一つだけ、お話ししておこうと思いまして』
透は手にしていたドライバーを棚へ置いた。
「十六年前のことですか」
『はい』
黒瀬は午後なら家にいると言った。
電話を切ると、千鶴が肉まんを持ったままこちらを見ていた。
「黒瀬さん?」
「ああ」
「何か喋る気になったんですか」
「一つだけ」
「一つだけなんだ」
千鶴は残った肉まんを口へ運んだ。
黒瀬らしい、と透も思った。
全部を話すとは言わない。訊かれたからでもない。自分で話す範囲を決めて、その中から一つだけ差し出す。
ただ、昨日までとは違う。
黒瀬のほうから電話をかけてきた。
※
午後、黒瀬の家を訪ねると、昨日と同じ和室へ通された。
今日は茶のほかに、小さな紙の束が座卓へ置かれている。透が役場で見た陳情書の控えだった。
「まだ持ってたんですか」
「ええ」
紙の端は黄色くなり、何度も折った跡がある。
黒瀬は一番上の紙を指で押さえた。
「これを出した人とは、若いころからの付き合いでした」
十六年前、祖父が最後の言葉を預かった男だった。
黒瀬が紹介議員となって、河岸側の道路と排水設備の改修を求めた陳情を議会へ出している。
「仕事も一緒でしたか」
「昔は造船所で」
黒瀬が自分の手を見る。
太い指だった。町議をしていた男の手には見えないと、初めて会ったときにも透は思った。
「私が先に現場を離れました。議員になってからも、あの人は時々ここへ来ましてね。町のことを、ずいぶん言われました」
「陳情も?」
「そうです」
黒瀬は笑わなかった。
「あの辺りは水が出る。年寄りもいる。大きな雨が来てからでは遅い。何度も同じ話をされました」
陳情書の文章と同じだった。
道路。
側溝。
水が引くまでの時間。
夜になれば足元が見えないこと。
透は紙を見た。
「それで、黒瀬さんが議会に持っていった」
「はい」
「でも、その人は途中で亡くなった」
黒瀬が頷いた。
「急でした」
それ以上、死因は話さなかった。透も訊かなかった。
問題は、そのあとだ。
祖父が死者のそばへ呼ばれ、最後の言葉を預かった。
宛先は黒瀬だった。
「何を受け取ったんですか」
今度は黒瀬が黙った。
昨日までなら、ここで「お話しできません」と返ってきたはずだった。
だが今日は違った。
黒瀬は座卓の陳情書を見ながら言った。
「『巌。あとは頼む』」
短かった。
透は何も言わなかった。
あれだけの資料を残した人間が、最後に選んだ言葉はそれだけだった。
黒瀬が続ける。
「先代がここへ来て、それを言いました」
「爺さんは、何か説明しましたか」
「いいえ」
当然だった。
祖父は意味を足さない。
死者が「あとは頼む」と言ったなら、それだけを運ぶ。
何を頼んだのかは説明しない。黒瀬と死者の間にあったものを、祖父は知らなくていい。
「私にはわかりました」
黒瀬が言った。
「道路のことだと思った?」
「そのときは」
その言い方が引っかかった。
「今は違うんですか」
黒瀬はすぐには答えなかった。
「十六年ありますから」
静かな声だった。
「同じ一言でも、聞いた日の意味と、今の意味は同じではありません」
透は祖父の掟を思い出した。
言葉を運ぶ。
解釈しない。
同じ言葉を受け取っても、人間のほうが変われば意味まで変わる。
それは預かり屋にはどうしようもない。
「受け取ったとき、どう思ったんですか」
黒瀬は陳情書の角を揃えた。
「困りました」
意外な答えだった。
「嬉しかったとかじゃなく?」
「死んだ人に頼まれたんですよ」
黒瀬が初めて、ほんの少し苦く笑った。
「断れないでしょう」
透は返せなかった。
そのとおりだった。
生きている相手なら、できないと言える。待ってくれとも言える。
死者の最後の一言には、それができない。
黒瀬は目を伏せた。
「それから、泣きました」
声の調子は変わらなかった。
だから余計に、透は顔を上げた。
「先代の前で?」
「ええ」
黒瀬は自分の手を見ている。
「いい歳をして、ずいぶん泣きました」
十六年前なら、黒瀬は五十二歳だった。
透はその数字を頭の中で確かめた。
今の黒瀬しか知らない。背筋が伸び、声を荒らげず、何を訊かれても自分で決めたところまでしか話さない男。
その男が五十二歳のとき、祖父の前で泣いた。
「爺さん、何て言いました」
「何も」
透は少しだけ笑いそうになった。
祖父らしい。
黒瀬も同じことを思ったらしい。
「本当に何も言いませんでした。ただ、私が泣き終わるまで座っていました」
それだけだった。
慰めない。
励まさない。
「あとは頼む」の意味も訊かない。
泣き止むまで、そこにいる。
透が知らない祖父の姿だった。
「それで」
黒瀬が言った。
「帰る先代を玄関で止めました」
透は欄外の文字を思い出した。
黒瀬。
日付も、預かった相手も、宛先もない名前。
「私が死ぬときにも来てほしい、とお願いしました」
「なんで、その日に?」
黒瀬は少し考えた。
「羨ましかったのかもしれません」
「何が」
「最後に一つだけ、残せることが」
透は黒瀬を見た。
「死んだ友人が?」
「はい」
黒瀬の指が陳情書の端に触れた。
「あの人には、私へ残す言葉があった。私には、あのとき何もありませんでした」
だから予約した。
いつか自分にも最後が来る。
そのとき、誰かへ残したいものができているかもしれない。
祖父はその名前だけを、控え帳の欄外へ書いた。
「それから三年後に、爺さんは死にました」
透が言うと、黒瀬は頷いた。
「ええ」
十六年前、黒瀬五十二歳。
十三年前に祖父が死亡したとき、黒瀬は五十五歳。
予約を預かった本人は、黒瀬より先にいなくなった。
「そのとき、予約も終わったと思わなかったんですか」
「思いましたよ」
「じゃあ、なんで今」
黒瀬はしばらく黙った。
「預かり屋を継いだ人がいると聞いたからです」
「それだけ?」
「それだけではありません」
透は待った。
黒瀬は、今日は逃げなかった。
「十六年前には、残したい言葉がありませんでした」
声が少しだけ低くなった。
「今は、あります」
透は何も訊かなかった。
誰に。
何を。
喉まで出かかったが、飲み込んだ。
まだ黒瀬は死ぬ間際ではない。
今ここで聞けば、それは最後の言葉ではなくなる。
黒瀬も、それをわかっている。
「十五年前からですか」
透が訊いたのは、それだけだった。
黒瀬の指が止まった。
「はい」
返事も、それだけだった。
※
役場へ寄ったのは、前に借りた議会記録の複写を楓へ返すためだった。
楓は窓口から出てきて、紙を受け取った。
「もう用済みですか」
「まだ見るかもしれない」
「じゃあ持ってていいですよ。コピーですから」
透は紙を受け取り直した。
楓がこちらを見る。
「何かわかりました?」
「少し」
「黒瀬さん?」
透は頷いた。
楓は詳しく訊かなかった。
代わりに自販機へ行き、温かい缶を二本買った。
一本が透へ飛んでくる。
慌てて受け取った。
「熱い」
「温かいの買ったので」
「投げるなよ」
「取れると思ったので」
楓は自分の缶を開けた。
役場の裏には冬の風が回り込んでいる。陽が出ているのに寒かった。
透も缶を開けた。
「氷見さん」
「はい」
「死んだ人に頼まれたら、断れる?」
楓の眉が動いた。
「急ですね」
「例えば」
「内容によります」
即答だった。
透は缶を持ったまま笑った。
「普通そうだよな」
「榊さんは違うんですか」
透は答えなかった。
黒瀬は、死んだ友人に「あとは頼む」と言われた。
何をどこまで頼まれたのか、本当のところはもう確かめられない。
それでも十六年間、一言を手放せなかった。
楓が横から透を見る。
「何か、引き受けたんですか」
「俺じゃない」
「じゃあ、誰です」
透は缶の温かさを掌で確かめた。
「引き受けたままの人がいる」
楓はそれ以上訊かなかった。
※
便利堂へ戻ると、黒瀬の紙を控え帳から出した。
住所と電話番号。
まだ日付はない。
預かった言葉もない。
十六年前、黒瀬は友人から一言を受け取った。
巌。あとは頼む。
その日のうちに、自分が死ぬときの予約を入れた。
三年後、祖父が死んだ。
それから十三年経って、黒瀬は透のところへ来た。
計算は合っている。
ただ、一つだけ十六年前にはなかったものが増えている。
残したい言葉。
黒瀬は、それが十五年前からあると言った。
透は紙を元の場所へ戻した。
十六年前の「あとは頼む」は、まだ終わっていない。
黒瀬が十六年かけても手放せなかったものの先に、十五年前があった。




