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預かり屋 榊便利堂 -最期の一言を、七日以内に届ける-  作者: MIYA
案件07 「届いたあとの言葉」

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第41話 あとは頼む

黒瀬から電話があったのは、翌日の朝だった。


 便利堂を開けてまだ三十分も経っていない。透は昨日使った工具を棚へ戻していて、千鶴はストーブの前でコンビニの肉まんを食べていた。


 固定電話が鳴り、透が受話器を取る。


 「はい、榊便利堂です」


 『黒瀬です』


 昨日別れたばかりの声だった。


 透は工具を持ったまま壁へ背を預けた。


 「どうしました」


 『昨日のお話ですが』


 黒瀬はそこで少し間を置いた。


 『一つだけ、お話ししておこうと思いまして』


 透は手にしていたドライバーを棚へ置いた。


 「十六年前のことですか」


 『はい』


 黒瀬は午後なら家にいると言った。


 電話を切ると、千鶴が肉まんを持ったままこちらを見ていた。


 「黒瀬さん?」


 「ああ」


 「何か喋る気になったんですか」


 「一つだけ」


 「一つだけなんだ」


 千鶴は残った肉まんを口へ運んだ。


 黒瀬らしい、と透も思った。


 全部を話すとは言わない。訊かれたからでもない。自分で話す範囲を決めて、その中から一つだけ差し出す。


 ただ、昨日までとは違う。


 黒瀬のほうから電話をかけてきた。


 ※


 午後、黒瀬の家を訪ねると、昨日と同じ和室へ通された。


 今日は茶のほかに、小さな紙の束が座卓へ置かれている。透が役場で見た陳情書の控えだった。


 「まだ持ってたんですか」


 「ええ」


 紙の端は黄色くなり、何度も折った跡がある。


 黒瀬は一番上の紙を指で押さえた。


 「これを出した人とは、若いころからの付き合いでした」


 十六年前、祖父が最後の言葉を預かった男だった。


 黒瀬が紹介議員となって、河岸側の道路と排水設備の改修を求めた陳情を議会へ出している。


 「仕事も一緒でしたか」


 「昔は造船所で」


 黒瀬が自分の手を見る。


 太い指だった。町議をしていた男の手には見えないと、初めて会ったときにも透は思った。


 「私が先に現場を離れました。議員になってからも、あの人は時々ここへ来ましてね。町のことを、ずいぶん言われました」


 「陳情も?」


 「そうです」


 黒瀬は笑わなかった。


 「あの辺りは水が出る。年寄りもいる。大きな雨が来てからでは遅い。何度も同じ話をされました」


 陳情書の文章と同じだった。


 道路。


 側溝。


 水が引くまでの時間。


 夜になれば足元が見えないこと。


 透は紙を見た。


 「それで、黒瀬さんが議会に持っていった」


 「はい」


 「でも、その人は途中で亡くなった」


 黒瀬が頷いた。


 「急でした」


 それ以上、死因は話さなかった。透も訊かなかった。


 問題は、そのあとだ。


 祖父が死者のそばへ呼ばれ、最後の言葉を預かった。


 宛先は黒瀬だった。


 「何を受け取ったんですか」


 今度は黒瀬が黙った。


 昨日までなら、ここで「お話しできません」と返ってきたはずだった。


 だが今日は違った。


 黒瀬は座卓の陳情書を見ながら言った。


 「『巌。あとは頼む』」


 短かった。


 透は何も言わなかった。


 あれだけの資料を残した人間が、最後に選んだ言葉はそれだけだった。


 黒瀬が続ける。


 「先代がここへ来て、それを言いました」


 「爺さんは、何か説明しましたか」


 「いいえ」


 当然だった。


 祖父は意味を足さない。


 死者が「あとは頼む」と言ったなら、それだけを運ぶ。


 何を頼んだのかは説明しない。黒瀬と死者の間にあったものを、祖父は知らなくていい。


 「私にはわかりました」


 黒瀬が言った。


 「道路のことだと思った?」


 「そのときは」


 その言い方が引っかかった。


 「今は違うんですか」


 黒瀬はすぐには答えなかった。


 「十六年ありますから」


 静かな声だった。


 「同じ一言でも、聞いた日の意味と、今の意味は同じではありません」


 透は祖父の掟を思い出した。


 言葉を運ぶ。


 解釈しない。


 同じ言葉を受け取っても、人間のほうが変われば意味まで変わる。


 それは預かり屋にはどうしようもない。


 「受け取ったとき、どう思ったんですか」


 黒瀬は陳情書の角を揃えた。


 「困りました」


 意外な答えだった。


 「嬉しかったとかじゃなく?」


 「死んだ人に頼まれたんですよ」


 黒瀬が初めて、ほんの少し苦く笑った。


 「断れないでしょう」


 透は返せなかった。


 そのとおりだった。


 生きている相手なら、できないと言える。待ってくれとも言える。


 死者の最後の一言には、それができない。


 黒瀬は目を伏せた。


 「それから、泣きました」


 声の調子は変わらなかった。


 だから余計に、透は顔を上げた。


 「先代の前で?」


 「ええ」


 黒瀬は自分の手を見ている。


 「いい歳をして、ずいぶん泣きました」


 十六年前なら、黒瀬は五十二歳だった。


 透はその数字を頭の中で確かめた。


 今の黒瀬しか知らない。背筋が伸び、声を荒らげず、何を訊かれても自分で決めたところまでしか話さない男。


 その男が五十二歳のとき、祖父の前で泣いた。


 「爺さん、何て言いました」


 「何も」


 透は少しだけ笑いそうになった。


 祖父らしい。


 黒瀬も同じことを思ったらしい。


 「本当に何も言いませんでした。ただ、私が泣き終わるまで座っていました」


 それだけだった。


 慰めない。


 励まさない。


 「あとは頼む」の意味も訊かない。


 泣き止むまで、そこにいる。


 透が知らない祖父の姿だった。


 「それで」


 黒瀬が言った。


 「帰る先代を玄関で止めました」


 透は欄外の文字を思い出した。


 黒瀬。


 日付も、預かった相手も、宛先もない名前。


 「私が死ぬときにも来てほしい、とお願いしました」


 「なんで、その日に?」


 黒瀬は少し考えた。


 「羨ましかったのかもしれません」


 「何が」


 「最後に一つだけ、残せることが」


 透は黒瀬を見た。


 「死んだ友人が?」


 「はい」


 黒瀬の指が陳情書の端に触れた。


 「あの人には、私へ残す言葉があった。私には、あのとき何もありませんでした」


 だから予約した。


 いつか自分にも最後が来る。


 そのとき、誰かへ残したいものができているかもしれない。


 祖父はその名前だけを、控え帳の欄外へ書いた。


 「それから三年後に、爺さんは死にました」


 透が言うと、黒瀬は頷いた。


 「ええ」


 十六年前、黒瀬五十二歳。


 十三年前に祖父が死亡したとき、黒瀬は五十五歳。


 予約を預かった本人は、黒瀬より先にいなくなった。


 「そのとき、予約も終わったと思わなかったんですか」


 「思いましたよ」


 「じゃあ、なんで今」


 黒瀬はしばらく黙った。


 「預かり屋を継いだ人がいると聞いたからです」


 「それだけ?」


 「それだけではありません」


 透は待った。


 黒瀬は、今日は逃げなかった。


 「十六年前には、残したい言葉がありませんでした」


 声が少しだけ低くなった。


 「今は、あります」


 透は何も訊かなかった。


 誰に。


 何を。


 喉まで出かかったが、飲み込んだ。


 まだ黒瀬は死ぬ間際ではない。


 今ここで聞けば、それは最後の言葉ではなくなる。


 黒瀬も、それをわかっている。


 「十五年前からですか」


 透が訊いたのは、それだけだった。


 黒瀬の指が止まった。


 「はい」


 返事も、それだけだった。


 ※


 役場へ寄ったのは、前に借りた議会記録の複写を楓へ返すためだった。


 楓は窓口から出てきて、紙を受け取った。


 「もう用済みですか」


 「まだ見るかもしれない」


 「じゃあ持ってていいですよ。コピーですから」


 透は紙を受け取り直した。


 楓がこちらを見る。


 「何かわかりました?」


 「少し」


 「黒瀬さん?」


 透は頷いた。


 楓は詳しく訊かなかった。


 代わりに自販機へ行き、温かい缶を二本買った。


 一本が透へ飛んでくる。


 慌てて受け取った。


 「熱い」


 「温かいの買ったので」


 「投げるなよ」


 「取れると思ったので」


 楓は自分の缶を開けた。


 役場の裏には冬の風が回り込んでいる。陽が出ているのに寒かった。


 透も缶を開けた。


 「氷見さん」


 「はい」


 「死んだ人に頼まれたら、断れる?」


 楓の眉が動いた。


 「急ですね」


 「例えば」


 「内容によります」


 即答だった。


 透は缶を持ったまま笑った。


 「普通そうだよな」


 「榊さんは違うんですか」


 透は答えなかった。


 黒瀬は、死んだ友人に「あとは頼む」と言われた。


 何をどこまで頼まれたのか、本当のところはもう確かめられない。


 それでも十六年間、一言を手放せなかった。


 楓が横から透を見る。


 「何か、引き受けたんですか」


 「俺じゃない」


 「じゃあ、誰です」


 透は缶の温かさを掌で確かめた。


 「引き受けたままの人がいる」


 楓はそれ以上訊かなかった。


 ※


 便利堂へ戻ると、黒瀬の紙を控え帳から出した。


 住所と電話番号。


 まだ日付はない。


 預かった言葉もない。


 十六年前、黒瀬は友人から一言を受け取った。


 巌。あとは頼む。


 その日のうちに、自分が死ぬときの予約を入れた。


 三年後、祖父が死んだ。


 それから十三年経って、黒瀬は透のところへ来た。


 計算は合っている。


 ただ、一つだけ十六年前にはなかったものが増えている。


 残したい言葉。


 黒瀬は、それが十五年前からあると言った。


 透は紙を元の場所へ戻した。


 十六年前の「あとは頼む」は、まだ終わっていない。


 黒瀬が十六年かけても手放せなかったものの先に、十五年前があった。

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