第40話 十六年前の約束
黒瀬へ電話をかけたのは、翌日の午後だった。
透は十六年前の控え帳を机に開いていた。
祖父が預かった相手の名。その隣に、届け先として黒瀬巌と書かれている。
呼出音が三度鳴った。
『はい、黒瀬です』
「榊です」
『先日はどうも』
「今、少しいいですか」
『ええ』
透は帳面の一行へ目を落とした。
「十六年前、爺さんから言葉を受け取ってますよね」
電話の向こうが少し静かになった。
『帳面をご覧になりましたか』
「はい」
『では、隠しても仕方ありませんね。受け取りました』
「誰から何を受け取ったのか、聞いても?」
『誰からかは、帳面にあるのでしょう』
「言葉の中身です」
黒瀬はすぐには答えなかった。
『電話でする話ではありませんね』
「じゃあ、会ってください」
『こちらから伺いましょうか』
透は壁の予定表を見た。午後の依頼は一件だけで、まだ時間がある。
「俺が行きます」
『わかりました』
受話器を置くと、奥で伝票を整理していた千鶴が顔を上げた。
「黒瀬さんですか」
「ああ」
「行くんですね」
「うん」
千鶴はしばらく透を見た。
「怒らないでくださいね」
「怒ってないよ」
「そういうことにしときます」
透は控え帳を閉じ、棚へ戻した。
今日は帳面を持っていく必要はなかった。
※
黒瀬の家は、便利堂から歩いて行ける距離にあった。
古い瓦屋根の家で、庭木は冬でも枝が揃えられている。玄関を開けたのは黒瀬本人だった。
「どうぞ」
通された座敷で、二人は向かい合った。
茶が出ても、透はすぐには手をつけなかった。
「十六年前のこと、覚えてます?」
「覚えています」
「爺さんから何を受け取ったんですか」
「それは申し上げません」
黒瀬の返事は早かった。
「どうして」
「私が今それを話せば、十六年前に受け取った言葉ではなくなるからです」
透は黒瀬を見る。
「同じ言葉を言えばいいでしょう」
「本当に同じになると思いますか」
黒瀬は湯呑みに触れた。
「十六年前、私は一言を受け取りました。そのあとに何をしたかも、何を考えたかも覚えています。今の私が口にすれば、それまで一緒についてくる」
透は返さなかった。
言葉を受け取った人間が、そのあとどう解釈したかは祖父の控え帳にも残らない。
黒瀬は茶を一口飲んだ。
「先代も、届けたあとで内容を訊き返すような方ではありませんでした」
「爺さんとは、そのあとも会ってますよね」
「ええ」
「何を頼んだんですか」
今度は黒瀬が透を見た。
「自分が死ぬとき、来てもらえないかと頼みました」
透は少し間を置いた。
「今の予約と同じ?」
「同じです」
「十六年前から?」
「はい」
黒瀬は特別なことを話す調子ではなかった。
十六年前に祖父から一言を受け取り、その日のうちに、自分の最期にも来てほしいと頼んだという。
「爺さんは何て?」
「来られたら行く、と」
それだけだった。
※
祖父が亡くなったのは、その三年ほどあとになる。
「爺さんが死んだあと、俺のところには来なかったんですね」
「あなたが継いだものが、便利堂だけなのかわかりませんでしたから」
「最近まで?」
「ええ」
黒瀬は茶を置いた。
「預かり屋も続けておられると聞きました。それで確認に伺いました」
「誰から聞いたんです?」
「町にいれば、そのくらいは耳に入ります」
透はそれ以上追わなかった。
黒瀬の予約そのものは理解できた。
わからないのは、別のところだった。
「この前、後始末って言いましたよね」
「言いました」
「十六年前にもらった言葉の?」
黒瀬は首を横へ振った。
「受け取ったあとに、私がしたことのです」
透は膝の上で手を組んだ。
「何をしたんですか」
「今は話しません」
また同じところで止まった。
「死ぬときまで?」
「そこまでは申しません」
「じゃあ、いつなら話すんです」
「必要になったときです」
黒瀬はそれ以上答えなかった。
透も同じ質問を繰り返さなかった。
※
玄関へ戻ったところで、壁に掛かった写真が目に入った。
祭りの集合写真だった。
山車の前に何十人も並んでいる。町の店や家で見かけるものと大きくは変わらない。
透は靴を履きながら、写真の下にある年を見た。
最近のものだった。
「祭りには今も出るんですか」
「役目があれば」
「昔から?」
黒瀬が一度写真を見た。
「長く関わっています」
透は立ち上がった。
役場で見た会議録が頭に残っていた。
黒瀬が紹介議員を務めた陳情は、十五年前の八月に取り下げられている。
「十五年前もですか」
黒瀬は少し間を置いて答えた。
「はい」
「何をしてました?」
「氏子会の総代です」
透はそれ以上訊かなかった。
黒瀬も話を足さなかった。
玄関の外は風が強く、門のそばの枝が揺れていた。
「今日はありがとうございました」
透が言うと、黒瀬は頭を下げた。
「こちらこそ」
透は門を出た。
※
便利堂へ戻ると、千鶴は伝票を束ねていた。
「喧嘩しませんでした?」
「してない」
「ならよかったです」
透は上着を脱ぎ、机へ座った。
「十六年前、黒瀬さんは爺さんに予約してた」
千鶴が手を止める。
「今の依頼を?」
「ああ。自分が死ぬときに来てくれって」
「ずっと待ってたんですか」
「爺さんが死んでからは、俺が預かり屋を続けてるかわからなかったらしい」
千鶴は束ねた伝票を引き出しへ入れた。
「じゃあ、後始末っていうのは?」
「まだ言わない」
「黒瀬さんが?」
「うん」
千鶴は「またですか」と言って、流しへ向かった。
透は机の上に何も出さなかった。
十六年前の控え帳も、十五年前の巻も棚に入ったままだった。
午後の仕事で使った金具が工具箱に残っている。透は種類ごとに分け、空いた袋へ戻した。
千鶴が湯を沸かしながら訊いた。
「黒瀬さん、昔から祭りの人だったんですか」
「十五年前は総代だったって」
電気ポットの湯が沸いた。
千鶴はそれ以上、訊かなかった。




