第49話 宮下トヨ
ハルから言葉を預かって三日目の朝、透は便利堂の机に古い住宅地図を広げていた。
十五年前の港東二十七番には、宮下という名字がある。
ハルが最後に呼んだ相手は、トヨ。
二つが同じ家を指している保証はない。それでも、町の名簿や電話帳を探しても見つからなかった名前が、消された四世帯の一軒と同じ姓を持っていた。
透は地図を閉じ、黒瀬へ電話をかけた。
「港東二十七番のことで、もう一つ訊きたいことがあります」
『何でしょう』
「トヨという人を知ってますか」
電話の向こうから、すぐには返事がなかった。
透は待った。
『宮下トヨさんですか』
初めて、名字がついた。
※
黒瀬とは二十七番で会うことになった。
昼を過ぎた空き地には、前に刈った草の跡がまだ残っている。柿の木には青い実が増えていた。
黒瀬が門の南京錠を開ける。
「入りますか」
「今日はここでいいです」
透は金網の前に立った。
「宮下トヨさん、この家の人だったんですね」
「ええ」
黒瀬は鍵を持ったまま答えた。
「世帯主として記録されていたのは、ご主人です。トヨさんは奥さんでした」
透は十五年前の住宅地図を思い浮かべた。
家族の名前までは載っていない。
だから今まで見つからなかった。
「ハルさんとは?」
「知り合いでしたよ」
「どんな?」
黒瀬は少し考えた。
「祭りの時期になると、よく一緒にいるのを見ました」
ノブが覚えていた話とも合う。
昔、ハルはトヨと祭りへ行っていたらしい。
「今、トヨさんはどこにいます」
黒瀬は空き地へ目を向けた。
「わかりません」
「亡くなったんですか」
「それも確認されていません」
透は黒瀬を見る。
「十五年前から?」
「私は、あの夜のあと一度も会っていません」
※
夏の風が草を揺らした。
家があった場所には、柿の木しか残っていない。
「じゃあ、行方不明?」
「そう呼ぶのが正しいと思います」
「役場では避難したことになってた」
「ええ」
「でも、誰も確認してなかった」
黒瀬は頷いた。
春に義信から聞いた話だった。
久保田が避難済みとして処理することを決め、義信が名簿から四世帯を外した。
宮下家も、その中に入っている。
「黒瀬さんは、避難したと思ってたんですか」
「当時は」
返事は短かった。
透は続きを待った。
「翌朝、避難済みと聞きました。混乱していましたから、私はそれ以上確認しませんでした」
「いつ、おかしいと思ったんです?」
黒瀬は柿の木を見た。
「祭りが終わってからです」
具体的な日付は言わなかった。
「この家へ来た?」
「ええ」
「誰もいなかった」
「はい」
それでも、避難先にいる可能性はあった。
親戚の家へ移ったのかもしれない。町を出たのかもしれない。
黒瀬はしばらくそう考えていたという。
「でも戻ってこなかった」
透が言う。
「戻りませんでした」
「家族全員?」
「私が知る限りは」
黒瀬は断定しなかった。
※
透は金網越しに柿の木を見る。
「この土地を買ったの、それでですか」
「それだけではありません」
黒瀬は南京錠を手の中で回した。
「ただ、手放されると聞いたとき、知らない人の家になるのは嫌でした」
透は前にも似た話を聞いている。
黒瀬はここへ来て草を刈り、柿の木を残した。
その理由を、今日はそれ以上訊かなかった。
「トヨさんを探したことは?」
「あります」
透が顔を上げる。
「どこまで?」
「親戚筋へは何度か訊きました。私にできたのはその程度です」
「見つからなかった?」
「ええ」
黒瀬は門を閉めた。
南京錠が小さな音を立てる。
透はハルの言葉を胸の内側に感じていた。
トヨちゃん。あれは、うちが持っていったんよ。
本人を見つけなければ、何も出ない。
空き地へ来ても言葉が動かないことは、すでに確かめている。
※
「黒瀬さん」
「はい」
「十五年前、この家で何があったんですか」
黒瀬はすぐには答えなかった。
「トヨさんがいなくなった夜のことです」
「それを知って、どうするんです?」
「探します」
透は答えた。
「ハルさんから預かった以上、七日間は探す」
黒瀬は透を見た。
「そうでしたね」
「そのために必要なら、十五年前のことも調べます」
黒瀬は空き地から道路のほうへ目を戻した。
「この家だけの話では済みません」
「四世帯だから?」
「それもあります」
黒瀬はそこで言葉を止めた。
透は待った。
以前なら、黒瀬が話さないと決めたところで押しても進まなかった。
今日は黒瀬のほうが先に口を開いた。
「榊さん」
「はい」
「ここから先には、ご両親のことも出てきます」
透は黒瀬を見る。
蝉の声が近くで続いていた。
「父さんと母さんが?」
「ええ」
「二十七番と関係あるんですか」
黒瀬は頷いた。
透は次の質問をすぐには出せなかった。
十五年前の八月十五日。
両親が亡くなった日。
祭りを止めなかったのは黒瀬だった。
そこまでは聞いている。
その先は、まだ誰からも聞いていなかった。
「話してください」
黒瀬は時計を見た。
「少し場所を変えてもよろしいですか」
「どこへ」
「港です」
※
黒瀬の軽トラックへ乗る前に、透は便利堂へ電話を入れた。
千鶴が出る。
『はい、榊便利堂です』
「俺。戻るの少し遅くなる」
『わかりました。どこです?』
「港」
『仕事?』
透は黒瀬の軽トラックを見る。
「違う」
少し間があった。
『じゃあ、店閉める時間になったら先に閉めますね』
「頼む」
『鍵は持ってます』
「知ってる」
電話を切った。
黒瀬は何も訊かず、運転席へ乗った。
透も助手席の扉を開ける。
軽トラックが二十七番を離れると、柿の木が金網の向こうへ小さくなっていった。




