第38話 受け取った側
黒瀬が帰った翌朝、透は祖父の控え帳を棚から下ろした。
十六年前の巻は、三十二年前のものほど傷んでいない。背表紙の布もまだ残っていて、開けば祖父の字が昨日書かれたもののように並んでいた。
日付。預かった相手。届けた相手。
感想はない。理由もない。四十年分、祖父は必要なことしか残していなかった。
透は黒瀬から渡された紙を机の端に置いた。
十六年前に一度だけ、先代へお願いをした。
本人がそう言った以上、確認することまで勝手な詮索にはならないと思った。少なくとも、黒瀬の家や過去を外から掘るのとは違う。
それでも頁をめくる指は少し遅かった。
「朝から何見てるんですか」
千鶴が戸を開けて入ってきた。
「爺さんの帳面」
「それは見たらわかります」
千鶴は鞄を置き、いつもの場所で上着を脱いだ。ストーブへ向かう前に、透の机を覗く。
「黒瀬さん?」
透は答えず、黒瀬の紙を裏返した。
「顔に出てますよ」
「出てない」
「昨日もそれ言ってました」
千鶴は笑って、電気ポットへ水を足しに行った。
透は頁を戻した。
十六年前。
冬から順に追う必要はない。黒瀬の名だけを探せばいい。祖父の字は癖が強いが、名字なら見落とさない。
十数頁めくったところで、指が止まった。
黒瀬巌。
あった。
透は行を左から追った。
最初に日付。その隣に、見覚えのない男の名前がある。そして、届けた相手の欄。
黒瀬巌。
透はもう一度、同じ行を読んだ。
間違いではない。
黒瀬は言葉を預けた側ではなかった。
受け取った側だった。
※
「どういうことです?」
千鶴が湯呑みを二つ置いた。透は帳面を閉じなかった。
「十六年前、爺さんが黒瀬さんに届けてる」
「黒瀬さんが頼んだんじゃなくて?」
「帳面だけなら違う」
千鶴は透の向かいへ座った。
「じゃあ昨日、嘘ついたんですか」
透は黒瀬の言い方を思い返した。
一度だけ、お願いをしました。
何を頼んだのかと訊けば、そこから先は話さないと言った。
「嘘とは限らない」
「でも受け取った側ですよね」
「受け取ったあとで、何か頼んだのかもしれない」
黒瀬は、十六年前の続きかと訊いた透に、後始末と言った。
言葉を受け取ること自体が依頼なら、後始末という言い方には少し合わない。
受け取ったあとに何かが残った。その何かを祖父へ頼んだ。そう考えれば、黒瀬の話と控え帳は両方成立する。
千鶴が帳面へ視線を落とした。
「誰からです?」
「知らない人」
透にも名前の記憶はなかった。町で聞いたことがある姓でもない。
「調べます?」
「まだ調べない」
「またですか」
「黒瀬さんが話さないって決めてることを、先回りして暴く必要はない」
千鶴は湯呑みを持った。
「でも、死ぬとき急に全部言われたら困りません?」
それは昨日から透も考えていた。
予約型は、待つ時間が長い。立花トキのときは半年だった。その間、透は何も調べなかった。
必要になったのは、実際に言葉を預かってからだ。黒瀬だけ扱いを変える理由はない。
ただ、今回は昔の一件がすでにある。
「困るな」
「ですよね」
「でも、それで勝手に調べていいことにはならない」
千鶴は少し考え、茶を飲んだ。
「めんどくさい仕事ですね」
「今さらか」
「今までよりめんどくさいです」
否定はできなかった。
※
昼前、梶が壊れた手押し車を持ってきた。
便利堂へ頼む側なのに、自分で押してきた。片方の車輪が斜めになり、動かすたび金属が擦れる。
「これ直るか」
「軸見ないとわかりません」
「見てくれ」
透は店の前へ出し、車輪を外した。
軸受けが削れている。部品を替えればまだ使えそうだった。
梶は店先の椅子に座り、勝手に茶を飲んでいる。透は工具を取りに戻る途中で、机の控え帳を見た。
「梶さん」
「なんや」
「爺さん、言葉を届けたあとって、どこまで面倒見てました」
梶が湯呑みから顔を上げた。
「何の話や」
「受け取った人が、そのあと困ったとか」
「知らん」
「知らない?」
「届けたら終わりやろ」
答えは早かった。
透は工具箱を持って店先へ戻った。
「爺さんもそう言ってました?」
「言うとった。運ぶんが仕事や。受け取ったもんをどうするかまで預かり屋が口出したら、話が変わる」
梶は空の湯呑みを覗いた。
「そもそも死んだ人間の言葉やぞ。受け取った側が喜ぶとは限らん」
透は車輪の軸を布で拭いた。
案件04を思い出した。届けないでほしいと言われた言葉。
受け取る側にも事情がある。祖父はそれを知ったうえで、届けるところまでを自分の仕事にした。
「受け取った人から、別のこと頼まれたら?」
梶の目が少し細くなった。
「誰の話や」
透は黙った。
梶はしばらくこちらを見ていたが、それ以上は訊かなかった。
「榊さんが受けたなら、榊さんが決めたんやろ」
「何を」
「受けるかどうかをや」
透は手を止めた。
「預かり屋って、断ってよかったんですか」
梶が鼻で笑った。
「なんでも屋でも断るやろ。屋根から飛べ言われて飛ぶんか」
「それとは違う」
「同じや。できんもんはできん。やったらあかんと思うたら、やらんかったらええ」
梶は手押し車を足先で軽く押した。車輪を外しているので動かない。
「ただし」
透は顔を上げた。
「中身聞いてから怖なって逃げるんと、最初から受けんのは別やぞ」
梶の声はいつもと変わらなかった。
透はその言葉だけを残して、軸受けの寸法を測った。
※
午後、部品を取りに資材屋へ行った。
戻ると千鶴は乾物屋の配達へ出ていて、便利堂には誰もいなかった。
透は手押し車を直し、車輪を回した。音はしない。梶に電話をすると、夕方取りに来ると言った。
机へ戻る。
十六年前の控え帳は開いたままだった。
透はもう一度、黒瀬の行を見る。
見覚えのない男から預かり、黒瀬巌へ届けた。
記録にあるのは、それだけ。
祖父が何を運んだのかは書かれていない。そのあと黒瀬が祖父へ何を頼んだのかも、控え帳にはない。
預かり屋としての仕事ではなかったのかもしれない。
それなら記録がないのも不自然ではない。
透は昨日受け取った紙を横へ置いた。
住所。電話番号。
十六年前の一件の後始末。
事情を知ったあとで、同じ答えになるかはわからない。
黒瀬はそう言った。
昨日より意味が少し変わって聞こえる。
今回の依頼は、十六年前に届けられた言葉そのものではない。
届けられたあとに始まった何かだ。
透は黒瀬の紙を控え帳へ挟んだ。
そのとき、古い頁の端に鉛筆の跡が見えた。
本文の欄ではない。
祖父が普段何も書かない、頁のいちばん下だった。短い線のあとに、二文字だけある。
黒瀬。
透は目を細めた。
同じ頁に、同じ名前が二度あった。
届け先の欄と、欄外。
ただし欄外のほうには、日付も相手も書かれていない。何のために書いたのかはわからなかった。
消しかけた跡にも見える。
それでも祖父が、届け終えたあとにも黒瀬の名を残していたことだけは確かだった。
透は帳面を閉じなかった。
十六年前の仕事は、届けて終わっていなかった。




