第36話 届かなかった
翌日、透は浦上家を訪ねた。
ノブは前と同じ座敷にいた。膝には厚い毛布が掛かり、座卓の横には湯気の立つ湯呑みが置かれている。
透が座ると、ノブが先に訊いた。
「何かわかったんやね」
「はい」
透は手帳を開いた。
そこには昨日、墓地で書き留めた名前がある。
「浦上幸さんという人について、教えてもらえますか」
ノブの目が手帳へ落ちた。
返事はすぐには来なかった。
「幸は、うちの娘です」
透は鉛筆を置いた。
「生まれて、すぐ亡くなりました」
「音吉さんが亡くなるより前ですね」
「ずっと前です」
ノブは毛布の上で両手を重ねた。
「なんで幸の名前が出てきたんです?」
透は常光寺の墓誌で見つけたことと、郵便局に残されていた音吉の私物の中に、幸と書かれた赤ん坊の写真があったことを話した。
ノブが少し身を起こした。
「写真?」
「はい。白い布に包まれた赤ん坊の写真です。裏に音吉さんの字で幸と書いてありました」
「残しとったんやね」
ノブは湯呑みへ手を伸ばしたが、そのまま触れずに戻した。
「わたし、あれはなくなったと思うとった」
「家にはなかったんですか」
「幸が死んだあと、写真も見んようになりました。音吉も何も言わんかったし、わたしも聞かんかった」
透は手帳を閉じた。
※
「ノブさん」
「はい」
「三十二年前のことについて、俺が調べてわかった範囲を話してもいいですか」
ノブが頷いた。
透は順番に話した。
祖父と音吉は、音吉が亡くなる前から知り合いだったこと。郵便局の仕事を請け、碁を打つ間柄でもあったこと。
音吉の臨終で祖父が一言を預かり、七日で届けるとノブへ告げたこと。
それでも、その言葉は届かなかった。
祖父の控え帳には、届け先の名前ではなく「持越」とだけ書かれている。
そのあと祖父は「とおる」を声にできなくなった。
ノブは口を挟まずに聞いていた。
「前に聞いた話もあります」
透は言った。
「祖父が帰るとき、玄関で言ったんですよね。あの人には言えんな、と」
「覚えとります」
「俺は最初、その『あの人』が届け先だと思ってました」
ノブが透を見る。
「違うんですか」
「そう考えると、持越になった理由が合いません」
透は座卓の木目へ目を落とした。
「届け先は、もう亡くなっていた人だった。その人のことをノブさんに言えなかった。今あるものを全部合わせると、そのほうが自然です」
ノブの指が毛布の上で動いた。
「幸?」
透は頷いた。
「音吉さんが最後に言葉を残した相手は、幸さんだったと考えています」
※
部屋の時計が鳴った。
ノブは何も言わず、座卓の上を見ていた。
やがて、小さく訊いた。
「何て言うたんです?」
「それは、わかりません」
「お爺さんの帳面にも?」
「残ってません。祖父は預かった言葉そのものを書かなかったので」
ノブが頷いた。
「そうやったね」
「俺にわかるのは、誰へ向いていたかまでです」
音吉がどんな一言を残したのかは、もう調べられない。
祖父が抱えたものを、透が読み直すこともできない。
ノブは目元へ手をやるでもなく、ただ湯呑みを取り、一口飲んだ。
「幸の名前、あの人は言わんかったんです」
「音吉さんが?」
「死んだあと、一回もとは言わんけどね。少なくとも、わたしの前ではほとんど言わんかった」
ノブは湯呑みを置いた。
「お墓の話をしたときも寺に任せる言うて、それで終わり。わたしも、そのうち言わんようになった」
「写真は残してた」
「そうみたいやね」
ノブはそこで初めて少し笑った。
「家に置いとったら、わたしに見つかるからね」
透には、その意味まではわからなかった。
音吉が隠したかったのか、ただ手放せなかっただけなのか。写真を郵便局に置いた理由も、本人にしかわからない。
※
「じゃあ」
ノブが言った。
「届かんかったんやね」
「はい」
透は今度は迷わず答えた。
「祖父の控え帳どおりなら、届いていません」
ノブは目を閉じ、すぐに開いた。
「三十二年、そこだけ知りたかったんです」
透は膝の上へ手を置いた。
謝りたかった。
祖父が何も言わずに終わらせたことを、孫の自分が謝るのは違うとも思う。それでも、三十二年間待たせたものを目の前にすると、別の言葉が浮かばなかった。
口を開く。
音にならない。
透はそのまま頭を下げた。
「榊さん」
ノブの声がした。
透は頭を上げる。
「それ、あんたの分やないでしょう」
「でも」
「お爺さんのことまで、あんたが頭下げんでええよ」
透は返事をせず、姿勢を戻した。
ノブは座卓の端へ手を置いた。
「三十二年前に聞いとったら、どうしとったやろね」
窓の外へ目を向ける。
「なんでわたしに言わんかったんって、音吉に腹立てたかもしれん。幸に何を言うたんって、お爺さんにも訊いたかもしれん」
「はい」
「今は、もう訊く相手がおらん」
透は何も足さなかった。
※
少し経って、ノブが訊いた。
「音吉、榊さんのお爺さんと碁打っとったんでしょう」
「梶さんから聞きました」
「弱かったやろ」
「音吉さんがですか」
「ものすごく弱かった」
ノブの声が少しだけ軽くなった。
「負けて帰ってきた日は機嫌悪いんです。次の週になったら、また行く」
「祖父は強かったらしいです」
「一遍くらい負けてやったらよかったのに」
透は祖父のことなので、たぶん負けなかっただろうと思った。
ノブは湯呑みを持った。
「幸の写真、今度見せてもらおうかな」
「郵便局に言えば出してくれると思います。家の方から預けたものなので」
「そうするわ」
透は立ち上がった。
玄関まで送ると言われたが、ノブには座っていてもらった。
靴を履いたところで、三十二年前の祖父もここに立ったのだと思い出した。
あの人には言えんな。
透は何も言わず、引き戸を閉めた。
※
便利堂へ戻ると、梶が土間に大根を二本置いていた。
本人は事務所に上がり、湯呑みを持っている。
「多くないですか」
「二本もろた」
「二本とも持ってきたんですか」
「一本だけ持って帰ったら、残りどうすんねん」
透にはよくわからなかった。
上着を脱いで座る。
「ノブさんに話してきました」
梶が湯呑みを置いた。
「幸さん。音吉さんとノブさんの娘でした」
「そうか」
「生まれてすぐ亡くなってたそうです」
梶は茶を飲んだ。
「ほな、届かんかったんやな」
「はい」
「わしの言うたん、そこだけは当たっとったか」
「そこだけですね」
「余計な一言つけんな」
透は大根を見た。
「一本持って帰りません?」
「いらん」
「俺も二本はいらないです」
「千鶴に持たせろ」
結局、それで話は終わった。
※
夕方、千鶴が便利堂へ来た。
机へ鞄を置き、土間の大根を見つける。
「増えてません?」
「一本持って帰ってくれ」
「なんでですか」
「梶さんから」
「それなら仕方ないですね」
千鶴は一本を選び、新聞紙で包み始めた。
「浦上さんのところ、どうでした?」
「話してきた」
「幸さんは?」
「娘だった。生まれてすぐ亡くなってた」
千鶴の手が止まった。
「じゃあ」
「届かなかった」
透はそれだけ答えた。
千鶴は新聞紙を折り、輪ゴムを掛けた。
「そうですか」
そのあと二人で、明日の作業伝票を確認した。
午前は雨戸の戸車交換。午後は庭木の霜よけが二軒入っている。
透は三十二年前の控え帳を棚へ戻した。
今度は、奥まできちんと差し込んだ。




