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預かり屋 榊便利堂 -最期の一言を、七日以内に届ける-  作者: MIYA
案件06「祖父の持越」

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第35話 小さな名前

 祖父が失ったのは「とおる」だった。


 そこまでわかっても、三十二年前の一件には一つだけ穴が残っていた。浦上音吉が、誰に言葉を残したのか。祖父がなぜ届けずに腐らせたのか。


 朝から二件の仕事を片づけても、その穴だけは頭から抜けなかった。雨戸の戸車を替え、商店街の倉庫から古い棚を運び出して便利堂へ戻ると、千鶴が机の上の控え帳を見て言った。


 「また三十二年前ですか」


 「またって何だ」


 「昨日、答え出た顔してたじゃないですか」


 「一個だけな」


 千鶴は電気ポットに水を足しながら、首だけこちらへ向けた。


 「まだあるんです?」


 透は三十二年前の頁を開いた。浦上音吉。届け先には名前がなく、二文字だけが残っている。


 持越。


 梶は最初、宛先が死んでいたからだろうと言った。あとになって、それが誰かから聞いた話ではなく、ただの当てずっぽうだったとわかった。


 だから一度捨てた。


 だが、祖父が本当に言葉を腐らせ、「とおる」を失ったとわかった今では、その当てずっぽうも完全には捨てきれない。


 「梶さん、最初に何て言ってた」


 「え?」


 「持越のこと」


 千鶴は少し考えた。


 「宛先が死んでたんじゃないか、ですよね」


 「そうだ」


 「でも、根拠なかったんですよね」


 「ああ」


 根拠はない。ただ、結果まで外れていたとは限らない。


 祖父は音吉の臨終に立ち会った。言葉を預かり、七日で届けるとノブに告げた。その帰り際に、玄関で「あの人には言えんな」と漏らした。


 宛先が「あの人」だと、透はずっと思っていた。


 そこを逆にしたらどうなる。


 宛先は別にいて、「あの人」はノブだったとしたら。


 「ちょっと寺行ってくる」


 「仕事は?」


 「午後から」


 「お昼は?」


 「帰ってから」


 千鶴は何か言いたそうな顔をしたが、最後には「梶さんに言いますよ」とだけ言った。


           ※


 常光寺の墓地は、冬になると音が少ない。


 夏にあれだけ伸びていた草は低くなり、石の間を抜ける風だけが耳に残る。白木は本堂の前で落ち葉を掃いていた。


 「榊さん、今日はどこの墓ですか」


 「墓に来る前提なんですね」


 「その顔で便利堂の見積もり持ってくる人はおらんでしょう」


 白木は箒を立てかけた。


 透は浦上家の墓を訊いた。白木は理由を尋ねず、墓地の奥を指した。


 「坂の手前、左から四つ目です。前にも言いましたけど、墓に刻んであるもんは誰が読んでも構いません」


 「過去帳は」


 「見せません」


 「わかってます」


 「ならよろしい」


 白木は掃除へ戻った。


 浦上家の墓は、古い石の多い一角にあった。墓誌には何人もの名が並んでいる。透は上から順に読み、途中で浦上音吉の名を見つけた。


 三十二年前の日付だった。


 その上に、知らない名が一つあった。


 浦上(さち)


 音吉よりずっと前の日付だった。


 透はしゃがんだ。姓は浦上。音吉と同じ墓にいて、音吉より先に死んでいる。


 それだけでは娘だと決められない。親族の子かもしれないし、別の家から入った名かもしれない。


 透はスマートフォンで墓誌の文字だけを撮った。写真を一枚撮って立ち上がると、少し離れたところで白木がまだ落ち葉を集めていた。


 「和尚さん」


 白木が顔を上げた。


 「浦上幸さんって、知ってますか」


 「知りません」


 早かった。


 「ほんとに?」


 「過去帳を見せろいう顔をしても駄目です」


 「してません」


 「してます」


 透は諦めた。


 訊くな、調べろ。


 祖父の掟を自分で破るところだった。


           ※


 帰り道で、透は郵便局に寄った。


 三十四年前の住宅地図と、祖父の走り書きを借りたままにしていた。局長にコピーを返すと、彼女は受け取った紙を浦上音吉の私物箱へ戻した。


 「もう大丈夫ですか」


 「たぶん」


 「たぶんなんですね」


 局長は箱の蓋を閉めかけて、透がまだ見ていることに気づいた。


 「何か探してます?」


 透は墓誌の写真を出した。


 「この名前、音吉さんの私物にありませんでしたか」


 局長は画面を見た。


 「幸さん」


 「はい」


 「私は中身を一つずつ確認してないですよ。ご家族から預かったものを、局に関係ありそうなものだけ保管してるので」


 当然だった。家族の私物を、局長が勝手に調べる理由はない。


 透がスマートフォンをしまおうとすると、局長が箱を指で押さえた。


 「浦上さんに訊いたらどうです?」


 「ノブさんに?」


 「この箱を寄せたの、浦上さんのご家族です。見るなら、持ち主に聞くのが一番早いでしょう」


 その通りだった。


 透は局から浦上家へ電話をかけた。出たのは、前に茶を運んできた嫁だった。事情を話すと、しばらくしてノブに代わった。


 『音吉さんの箱を、もう一度見てもいいですか』


 ノブは理由を訊かなかった。


 『ええよ。あれは局に置いてもろたもんやから。うちが持っとっても、よう捨てんだけやったし』


 許可をもらってから、透と局長は箱をもう一度開いた。


 碁の棋譜(きふ)、局の記念写真、古い手帳、町内会の紙。前に道案内を探したときは、祖父の字ばかり見ていた。


 今度は一枚ずつ、名前を見る。


 箱の底近くに、薄い封筒があった。表には何も書いていない。中を勝手に開くのは違うと思って脇へ置くと、その下から小さな写真が滑り出した。


 赤ん坊だった。


 白い布に包まれ、目を閉じている。写真の裏に、鉛筆で短く書いてある。


 幸。


 字は音吉のものだった。


 透は写真を裏返したまま、しばらく動かなかった。


 墓の名と同じだった。


 音吉は、死ぬまでこの写真を持っていた。


 局長が何も言わず、写真を箱の上へ戻した。


 「明日、浦上さんのところへ行きます」


 「そうしてください」


 透は私物箱の蓋が閉じるのを見た。


 祖父が言った「あの人には言えんな」。


 もし宛先が幸なら、あの人は誰だったのか。


 答えは一人しか残らなかった。


 浦上ノブ。


           ※


 便利堂へ戻ると、梶が勝手にストーブの前へ座っていた。


 鍋も一緒だった。


 「千鶴から聞いた。昼食うてへんのやろ」


 「食べます」


 「最初からそう言え」


 透は鍋の蓋を開けた。大根と鶏肉だった。最近これが多い。


 「梶さん」


 「なんや」


 「宛先が死んでたって話」


 梶の手が湯呑みの前で止まった。


 「当たってたかもしれません」


 「誰や」


 「まだ決めてません」


 「決めてへんのに当たった言うな」


 もっともだった。


 透は飯をよそった。


 「明日、ノブさんに確認します」


 梶はそれ以上訊かなかった。ただ、湯呑みを持ち上げる前に一度だけ言った。


 「榊さんが黙った理由も、聞けるとええな」


 透は答えなかった。


 聞けるかどうかはわからない。


 祖父はもういない。


 残っているのは、三十二年前から答えを待っている人だけだった。

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