第35話 小さな名前
祖父が失ったのは「とおる」だった。
そこまでわかっても、三十二年前の一件には一つだけ穴が残っていた。浦上音吉が、誰に言葉を残したのか。祖父がなぜ届けずに腐らせたのか。
朝から二件の仕事を片づけても、その穴だけは頭から抜けなかった。雨戸の戸車を替え、商店街の倉庫から古い棚を運び出して便利堂へ戻ると、千鶴が机の上の控え帳を見て言った。
「また三十二年前ですか」
「またって何だ」
「昨日、答え出た顔してたじゃないですか」
「一個だけな」
千鶴は電気ポットに水を足しながら、首だけこちらへ向けた。
「まだあるんです?」
透は三十二年前の頁を開いた。浦上音吉。届け先には名前がなく、二文字だけが残っている。
持越。
梶は最初、宛先が死んでいたからだろうと言った。あとになって、それが誰かから聞いた話ではなく、ただの当てずっぽうだったとわかった。
だから一度捨てた。
だが、祖父が本当に言葉を腐らせ、「とおる」を失ったとわかった今では、その当てずっぽうも完全には捨てきれない。
「梶さん、最初に何て言ってた」
「え?」
「持越のこと」
千鶴は少し考えた。
「宛先が死んでたんじゃないか、ですよね」
「そうだ」
「でも、根拠なかったんですよね」
「ああ」
根拠はない。ただ、結果まで外れていたとは限らない。
祖父は音吉の臨終に立ち会った。言葉を預かり、七日で届けるとノブに告げた。その帰り際に、玄関で「あの人には言えんな」と漏らした。
宛先が「あの人」だと、透はずっと思っていた。
そこを逆にしたらどうなる。
宛先は別にいて、「あの人」はノブだったとしたら。
「ちょっと寺行ってくる」
「仕事は?」
「午後から」
「お昼は?」
「帰ってから」
千鶴は何か言いたそうな顔をしたが、最後には「梶さんに言いますよ」とだけ言った。
※
常光寺の墓地は、冬になると音が少ない。
夏にあれだけ伸びていた草は低くなり、石の間を抜ける風だけが耳に残る。白木は本堂の前で落ち葉を掃いていた。
「榊さん、今日はどこの墓ですか」
「墓に来る前提なんですね」
「その顔で便利堂の見積もり持ってくる人はおらんでしょう」
白木は箒を立てかけた。
透は浦上家の墓を訊いた。白木は理由を尋ねず、墓地の奥を指した。
「坂の手前、左から四つ目です。前にも言いましたけど、墓に刻んであるもんは誰が読んでも構いません」
「過去帳は」
「見せません」
「わかってます」
「ならよろしい」
白木は掃除へ戻った。
浦上家の墓は、古い石の多い一角にあった。墓誌には何人もの名が並んでいる。透は上から順に読み、途中で浦上音吉の名を見つけた。
三十二年前の日付だった。
その上に、知らない名が一つあった。
浦上幸。
音吉よりずっと前の日付だった。
透はしゃがんだ。姓は浦上。音吉と同じ墓にいて、音吉より先に死んでいる。
それだけでは娘だと決められない。親族の子かもしれないし、別の家から入った名かもしれない。
透はスマートフォンで墓誌の文字だけを撮った。写真を一枚撮って立ち上がると、少し離れたところで白木がまだ落ち葉を集めていた。
「和尚さん」
白木が顔を上げた。
「浦上幸さんって、知ってますか」
「知りません」
早かった。
「ほんとに?」
「過去帳を見せろいう顔をしても駄目です」
「してません」
「してます」
透は諦めた。
訊くな、調べろ。
祖父の掟を自分で破るところだった。
※
帰り道で、透は郵便局に寄った。
三十四年前の住宅地図と、祖父の走り書きを借りたままにしていた。局長にコピーを返すと、彼女は受け取った紙を浦上音吉の私物箱へ戻した。
「もう大丈夫ですか」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
局長は箱の蓋を閉めかけて、透がまだ見ていることに気づいた。
「何か探してます?」
透は墓誌の写真を出した。
「この名前、音吉さんの私物にありませんでしたか」
局長は画面を見た。
「幸さん」
「はい」
「私は中身を一つずつ確認してないですよ。ご家族から預かったものを、局に関係ありそうなものだけ保管してるので」
当然だった。家族の私物を、局長が勝手に調べる理由はない。
透がスマートフォンをしまおうとすると、局長が箱を指で押さえた。
「浦上さんに訊いたらどうです?」
「ノブさんに?」
「この箱を寄せたの、浦上さんのご家族です。見るなら、持ち主に聞くのが一番早いでしょう」
その通りだった。
透は局から浦上家へ電話をかけた。出たのは、前に茶を運んできた嫁だった。事情を話すと、しばらくしてノブに代わった。
『音吉さんの箱を、もう一度見てもいいですか』
ノブは理由を訊かなかった。
『ええよ。あれは局に置いてもろたもんやから。うちが持っとっても、よう捨てんだけやったし』
許可をもらってから、透と局長は箱をもう一度開いた。
碁の棋譜、局の記念写真、古い手帳、町内会の紙。前に道案内を探したときは、祖父の字ばかり見ていた。
今度は一枚ずつ、名前を見る。
箱の底近くに、薄い封筒があった。表には何も書いていない。中を勝手に開くのは違うと思って脇へ置くと、その下から小さな写真が滑り出した。
赤ん坊だった。
白い布に包まれ、目を閉じている。写真の裏に、鉛筆で短く書いてある。
幸。
字は音吉のものだった。
透は写真を裏返したまま、しばらく動かなかった。
墓の名と同じだった。
音吉は、死ぬまでこの写真を持っていた。
局長が何も言わず、写真を箱の上へ戻した。
「明日、浦上さんのところへ行きます」
「そうしてください」
透は私物箱の蓋が閉じるのを見た。
祖父が言った「あの人には言えんな」。
もし宛先が幸なら、あの人は誰だったのか。
答えは一人しか残らなかった。
浦上ノブ。
※
便利堂へ戻ると、梶が勝手にストーブの前へ座っていた。
鍋も一緒だった。
「千鶴から聞いた。昼食うてへんのやろ」
「食べます」
「最初からそう言え」
透は鍋の蓋を開けた。大根と鶏肉だった。最近これが多い。
「梶さん」
「なんや」
「宛先が死んでたって話」
梶の手が湯呑みの前で止まった。
「当たってたかもしれません」
「誰や」
「まだ決めてません」
「決めてへんのに当たった言うな」
もっともだった。
透は飯をよそった。
「明日、ノブさんに確認します」
梶はそれ以上訊かなかった。ただ、湯呑みを持ち上げる前に一度だけ言った。
「榊さんが黙った理由も、聞けるとええな」
透は答えなかった。
聞けるかどうかはわからない。
祖父はもういない。
残っているのは、三十二年前から答えを待っている人だけだった。




