第34話 呼ばれなかった名前
翌朝、透は梶の家へ行った。
昨日の雨樋掃除で使った脚立が庭へ出したままになっている。梶はそれを物置へ戻そうとしていたので、透も反対側を持った。
「朝から何や」
「昨日の続きです」
「また爺さんか」
「はい」
二人で脚立を立てかけたあと、梶は家へ入った。
茶を出すついでに、昨日余った大根の煮物まで温め始める。
「朝、食べてきました」
「知るか」
透は座卓へ座った。
「道案内の話、もう少し覚えてませんか」
「昨日あれだけ喋ったやろ」
「通りの名前以外です」
梶が鍋の蓋を置いた。
「何を探しとるんや」
「まだ言わないほうがいいと思ってます。先に俺が言うと、梶さんがそれに合わせて思い出すかもしれないから」
「面倒なこと言いよるな」
そう言いながら、梶は向かいへ座った。
※
透は場所を一つずつ挙げた。
昔の便利堂から港。郵便局から町外れ。商店街から、梶が若いころに行った仕事先。
梶は覚えている範囲で、祖父の言い方を再現した。
橋まで行け。
魚屋の角を曲がれ。
薬屋が見えたら、その先を山のほうへ行け。
昨日と同じで、道の名前は出てこなかった。
「ほかは?」
「もうないぞ」
「隣町へ一人で行ったときの話、昨日してましたよね」
梶が湯呑みを持ったまま透を見る。
「わしが免許取ったころか」
「そのとき、どう教わりました?」
「あんた、細かいな」
梶は記憶を探しながら、座卓へ指で道を描いた。
川へ出て、橋を渡り、その先の店を曲がる。最後に白い家を探せと言われたらしい。
「途中に大きい道、ありませんでした?」
「あるよ」
「そこは?」
梶の指が横へ走った。
「そのまま向こう側まで行け、やったかな」
透は梶の指を見た。
「梶さんは何て訊いたんです?」
「そこまで覚えとるか」
「何となくでいいです」
梶は茶を飲んだ。
「この道、通るんですか、くらいは訊いたんちゃうか」
「それに、向こう側まで行け、と」
「たぶんな」
梶は怪訝そうに透を見る。
「なんや」
「もう少しだけ」
※
便利堂の仕事でも似たことがなかったかを訊いた。
人が行き来する場所を空ける仕事。荷物を運ぶ仕事。車を入れるため、庭の物を動かした仕事。
梶は最初、「そんな昔の言い方まで覚えとらん」と嫌がった。
それでも、話しているうちに一つ出てきた。
「板、立てかけとる家あったな。玄関の横に」
「いつです?」
「知らん。だいぶ前や」
作業の邪魔になる板を全部動かすほどではなかったので、人が行き来できるぶんだけ空けることになった。
「爺さん、何て?」
「人ひとり入れるくらい空けとけ、や」
透は何も言わなかった。
梶が続ける。
「軽トラ入れたいときも、車入れる幅を空けろとか。そんなんはよう言うとったな」
言い方としておかしくはない。
だから誰も気にしなかった。
透自身も、昨日までなら気にしなかったはずだった。
「梶さん」
「まだあるんか」
「爺さんが、通るって言ったのを覚えてます?」
梶の手が止まった。
「通る?」
「道を通るでも、人が通るでもいいです」
「知らんよ、そんなもん」
梶はすぐに答えたが、そのあと黙った。
湯呑みを置き、座卓の木目を見る。
「……言われてみたら」
透は待った。
「聞いた覚え、ないな」
※
田所シズは、若いころの祖父が中央通りや銀杏通りという名前を普通に使っていたと覚えていた。
梶が仕事を教わるころには、それがなくなっている。
梶が祖父について現場を回り始めたのは、三十二年前の失敗よりあとだった。
透はそれだけ伝えた。
「爺さんがしくじったのは、その間です」
梶が腕を組む。
「それで、道の言い方が変わったいうんか」
「まだです」
「まだなんか」
「もう一つあります」
透は座卓に置いた湯呑みを見た。
「爺さん、俺のこと何て呼んでました?」
梶が顔を上げる。
「チビスケ」
返事は早かった。
「大きくなってからは?」
「オマエやろ」
「名前は?」
梶は口を閉じた。
透は先を言わなかった。
しばらくして、梶が眉を寄せる。
「呼んどらんな」
「一回も?」
「わしが聞いた限りは」
透は頷いた。
祖父が失敗したのは、透が生まれる前だ。
生まれたときには、もうその呼び方しかなかった。
「でも、爺さんは俺の名前を書けました」
「年賀状か」
「はい」
梶は何も言わなくなった。
※
便利堂へ戻ると、千鶴が机で請求書をまとめていた。
「梶さん、何か覚えてました?」
「少し」
透は棚から古い葉書を出した。
祖父の字で、榊透くんと書いてある。
その隣へ紙を一枚置いた。
透は鉛筆を持ち、ごめん、と書いた。
千鶴が手元を見る。
「それは書けるんですね」
「ああ」
透は紙に書いた文字を見ながら、同じ語を声にしようとした。
口は動いたが、その先へは行かなかった。
代わりに言う。
「悪かった」
それなら声になった。
千鶴は何も言わず、年賀状へ目を移した。
「お爺さんも、同じだったってことですか」
「たぶん」
透は昨日から集めたメモを机へ置いた。
田所シズが覚えていた、若いころの道案内。
梶が覚えていた、その後の道案内。
通りの名前を使わなくなった。通ると言えば済む場所で、向こう側へ行けと言った。
そして、孫の名前を一度も呼ばなかった。
「透さん」
千鶴がゆっくり自分の名前を呼んだ。
透は返事をした。
千鶴は年賀状の宛名を見る。
「同じですね」
「ああ」
音にすると同じだった。
※
夕方、透は三十二年前の控え帳を開いた。
浦上音吉の欄には、祖父の字で持越と残っている。
梶が言った、四十年で一度だけのしくじり。
白木が昔聞いたという祖父の言葉も思い出した。
届けられんかったもんは、どこに行くんやろうな。
桑島の言葉が腐ったあと、透はごめんと言えなくなった。
三十二年前のあと、祖父は道の言い方を変えた。透が生まれてからも、その名を一度も呼ばなかった。
透は電話を取った。
梶はすぐに出た。
『なんや』
「さっきの続きです」
『まだあるんか』
透は年賀状を見た。
「爺さんが失った言葉、わかったと思います」
電話の向こうが静まった。
『何やった』
透は答えた。
「とおる、です」
梶はすぐには何も言わなかった。
やがて、小さく「ああ」とだけ返した。
※
電話を切ったあと、透は控え帳を棚へ戻した。
何冊か出したままになっていたので、年代を確かめながら順番に差していく。
一冊だけ、途中で手が止まった。
十五年前の帳面だった。
何となく開いた頁には、夏の依頼が並んでいる。
七月までは、いつもの字で記録が続いていた。
その先をめくる。
八月から九月にかけて、何も書かれていない。
破られた形跡はなかった。
次に字が現れるのは、そのあとだった。
透は空白の頁へ紙片を一枚挟み、帳面を閉じた。
今日はそれ以上、開かなかった。




