第33話 遠回り
昼過ぎ、透は郵便局の二階で三十三年前の集合写真を見ていた。
音吉は中央近くにいる。祖父は列の端で仕事着のまま立っていた。
前に見たときは、その二人ばかり見ていた。
今日は写真の後ろへ目を向ける。
壁には町の地図が貼られていた。細かな文字までは読めないが、太い線で道が引かれている。机の端には碁盤らしいものも写り込んでいた。
「何かわかりました?」
千鶴が階段を上がってきた。
郵便局の手伝いの休憩中らしく、手には紙コップを持っている。
「まだ」
「昨日も見てましたよね」
「昨日は爺さんを見てた」
「今日は?」
「爺さんが見てたもの」
千鶴も写真を覗いた。
透は壁の地図を指す。
「このころも、道に名前はあったんだよな」
「そりゃあるんじゃないですか」
「確認したい」
千鶴は少し考えてから階段を下りた。
戻ってきたときは、局長も一緒だった。
※
「昔の地図そのものは、ここには残ってないですね」
局長は写真を見ながら言った。
「でも、中央通りも銀杏通りも昔からありますよ。名前が変わったって話は聞いてません」
「音吉さんも使ってました?」
「そこまではわかりません。わたし、生まれてませんから」
もっともだった。
透は礼を言った。
局長は階段へ向かいかけ、振り返る。
「榊さん、何を探してるんです?」
「祖父が、道をどう教えてたかです」
局長は写真と透を交互に見た。
「それ、写真じゃわからんでしょう」
「はい」
自分でも、そう思った。
※
便利堂へ戻る途中、透は中央通りを歩いた。
商店街から役場の近くまで続く道だ。町の人間なら、その名前を言えばだいたい通じる。
田所シズが言っていた。
若いころの祖父は、通りの名前を使っていた。
途中から店や橋を目印にするようになった。
写真や地図をいくら調べても、声は残っていない。
透は方向を変え、梶の家へ向かった。
※
梶は物置の前で、古い縄を束ねていた。
「仕事か」
「今日は違います」
「ほな手伝え」
透は言われるまま、ほどけた縄をまとめた。
一本終わったところで訊く。
「梶さん。爺さんに道を教えてもらったことあります?」
「あるよ」
「覚えてます?」
「道による」
透は手を止めた。
「郵便局から田所商店」
梶が眉を寄せる。
「なんでそんなもん」
「いいから」
「よう行く道やろ」
「爺さんなら、どう言いました?」
梶は縄を膝へ置いた。
「局出て右行って、魚屋の角を曲がる。その先の薬屋越えて……」
途中で口を閉じた。
透は何も言わず待った。
梶がこちらを見る。
「中央通りをまっすぐで済むな」
「はい」
「なんであの人、そんな言い方しとったんや」
梶自身が首を傾げた。
※
別の場所も訊いた。
役場から常光寺。
港から便利堂。
昔の集会所から郵便局。
梶はすぐに答えられるものもあれば、途中で思い出せなくなるものもあった。
それでも、祖父の言い方として覚えているものには共通したところがあった。
「橋まで行って、渡らんと手前を左」
「魚屋の裏へ出たら、山のほうへ」
「薬屋の角から役場が見えるから、そっちへ行け」
梶が途中で笑った。
「あの人の道案内、ほんまに面倒やな」
「当時は気にならなかった?」
「気にならんよ。ちゃんと着くからな」
透は縄を束ね終えた。
「中央通りとか銀杏通りって、爺さんの口から聞いたことあります?」
梶はすぐには答えなかった。
長く一緒にいた人間の声を探すように、物置の中を見ている。
「ないな」
「一度も?」
「覚えがない」
梶は縄の端を結んだ。
「せやけど、道の名前を知らんかったわけやないぞ」
「どうしてわかるんです?」
「便利堂やっとる人間が知らんわけないやろ。住所見て仕事行っとったんやから」
それもそうだった。
文字なら使えた。
祖父は透の名前も書いている。
透は立ち上がった。
「田所さんとこ行ってきます」
「縄終わってからな」
「終わってます」
梶が束を見た。
「雑や」
透は結び直した。
※
田所商店へ着くと、シズは店先で値札を直していた。
「また榊さんの話?」
「またです」
「本人がおるときに、そんだけ興味持ったらよかったのに」
「そうですね」
シズは値札を棚へ戻した。
透は若いころの祖父の道案内について、もう一度訊いた。
「前に、通りの名前を使ってたって言いましたよね」
「言うたね」
「具体的に覚えてます?」
「何を?」
「中央通りとか、銀杏通りとか」
シズは腕を組んだ。
「言うとったよ」
返事は簡単だった。
「わたしが嫁に来たころは、この町の道なんか知らんかったからね。榊さんによう訊いたんよ」
「どう教えてました?」
「銀杏通りへ出て、そのまま役場まで行けとか。中央通りの角を曲がれとか。普通やったよ」
「途中から?」
「魚屋がどう、橋がどう」
シズは鼻で笑った。
「わたし、通りの名前くらいもう知っとるのに、いちいち店から説明するんやもん」
「変わったのは、いつごろです?」
「それは前にも言うたやろ。覚えとらん」
「はい」
「都合のいいとこだけ聞かんふりせんといて」
透はメモ帳を閉じた。
年代は曖昧なままだった。
ただ、若いころに通りの名前を声にしていたことは、シズが覚えている。
※
便利堂へ戻るころには日が落ちていた。
机の上には、昨夜出したままの年賀状がある。
榊透くん。
祖父の字だ。
透はその横へ、今日のメモを置いた。
田所シズが覚えていた言い方と、梶が覚えていた言い方。
前は通りの名前を使っていた。
後になると、建物や橋を順番に辿るようになった。
その変化が三十二年前の一件と同じ時期なのかは、まだ確かめられていない。
千鶴が郵便局から戻ってきた。
「まだやってたんですか」
「うん」
「何かわかりました?」
透はメモを渡した。
千鶴は二枚を読んだ。
「遠回りしてますね」
「道は合ってる」
「でも、中央通りって言えば一回で済むところを、魚屋と薬屋使って説明してる」
「そうだな」
千鶴は紙を机へ戻した。
「通りの名前、嫌いになったとか?」
「それなら楽なんだけどな」
透は年賀状を手に取った。
祖父は名前を書けた。
道の名前も知っていた。
口にしないものだけが増えている。
「梶さんに、もう一つ訊いてくる」
「今から?」
「明日」
「ですよね」
千鶴は安心したように鞄を下ろした。
透は年賀状を元の箱へ戻した。
次に確かめたいのは、道の名前ではなかった。




