第31話 呼び方
年が明けて、便利堂の仕事は年賀状の配達の手伝いから始まった。
局が人手を集める。町の若い人間が減ったので、透のような便利屋にも声がかかる。三日で終わる仕事だが、この時期には助かる。
千鶴は郵便局のアルバイトのほうへ行った。時給がこちらより高いので、透が勧めた。
「透さん、あたしがおらんで平気ですか」
「平気だ」
「毎朝の、あれは」
「いい」
千鶴はしばらく黙って、それから言った。
「じゃあ、局から帰りに寄ります」
※
配達で回っていると、この町の家の形がよくわかる。
表札の出ていない家。郵便受けが塞がれた家。同じ名字が三軒並んだ路地。年賀状の枚数でも、その家に何人住んでいるか見当がつく。
浦上の家には十二枚あった。ほとんどがノブ宛てだった。
嫁が玄関で受け取って、透の顔を見て言った。
「おばあちゃん、この頃よう寝とるんです」
「悪くなりましたか」
「先生は、こういうもんですと」
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三日目の夕方、透は局の裏で自転車を返した。
局長が出てきて、コーヒーの缶をくれた。四十代の女性で、音吉より三代あとの局長にあたる。
「浦上さんのことを調べとるんやってね」
この町は狭い。
「昔のことなんで、局には何も残っとりませんよ。書類は保存年限がありますから」
「わかります」
「けど、写真ならあります」
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局の二階の物置に、額に入った古い集合写真が並んでいた。
開局何十周年という札のついたものだ。局長が三枚目を指した。
「これが浦上さんです」
白黒の写真だった。局員が十人ほど局の前に並んでいて、中央の男が浦上音吉だった。制服の詰襟をきちんと留めて、背筋を伸ばしている。
その左端に、見覚えのある顔があった。
※
透は額に近づいた。
痩せた男が、集合写真の端で少しだけ体を斜めにして立っている。局員ではない。制服を着ていない。
祖父だった。
「なんで祖父が写ってるんですか」
「知りませんけど、外の人も写っとることはありますよ。近所の人とか、出入りの業者とか」
局長は札を見た。
「これ、三十三年前です」
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音吉が死ぬ一年前の写真だった。
透は写真をしばらく見ていた。祖父はカメラを見ていない。局員たちより半歩下がって、視線が横を向いている。
便利屋として出入りしていたのだろう。局の掃除か、荷物運びか、そういう仕事で。
祖父は音吉を知っていた。
依頼を受ける前から知っていた。だから臨終の場に呼ばれたし、宛先が誰かも聞いてわかった。
あの人には言えんな。
その言葉の重さが、少し変わった気がした。
※
夜、梶が来た。
この日は何も持っていなかった。手ぶらで来て、上がり框に座って、勝手に湯呑みを出す。
透は局の写真の話をした。
「そら写るやろ。爺さんは局の仕事もしとった」
梶はあっさり言った。
「郵便局は年寄りが多いからな。重いもんは全部よそに頼む。うちの船の網の修理も、爺さんが手伝いに来たことがある」
「じゃあ、音吉さんとは知り合いだったんですね」
「知り合いも何も、あの二人は」
梶はそこで湯呑みを口に運んで、飲まずに下ろした。
※
「碁を打っとった」
「碁ですか」
「局の二階でな。局長室に碁盤があってな、あそこは昼休みに人が集まっとった」
梶は湯呑みを畳に置いた。
「爺さんは強かった。音吉さんは弱かった。それでもよう打っとった」
透は畳を見ていた。
控え帳には、日付と、預かった相手と、届けた相手しか書いていない。碁を打った相手だったとは、どこにも書いていない。
※
戸が開いたのは、そのときだった。
千鶴が局の制服のまま入ってきた。帰りに寄ると言っていたのを、透は忘れていた。
「うわ、梶さんおる」
「おったら悪いんか」
「悪くないです。麦茶ください」
自分の家のように上がり込んで、自分でグラスを出した。局の仕事は三日目で、この子はもう手つきが職員のようになっている。
※
千鶴は写真の話を聞くと、身を乗り出した。
「透さんのお爺さん、どんな人だったんですか」
訊いたのは梶にだった。
「どんな人て」
「あたし、会ったことないので。透さんは自分のこと喋らんし」
梶は湯呑みを両手で包んだ。
「堅い人やった。無駄口をきかん。愛想もない」
「怖い人ですか」
「怖ないよ。ただ、何を考えとるかわからん人やった」
※
「透さんのこと、可愛がっとったんですか」
「そら可愛がっとった」
梶は即答した。
「こいつが小学校に上がる前な、便利堂の軽トラの助手席に乗せて、どこ行くにも連れて回っとった。荷台に乗せたら危ないいうて、必ず助手席や」
「へえ」
「チビスケ、チビスケ言うてな」
千鶴が笑った。
「透さん、チビスケって呼ばれてたんですか」
「呼ばれてたな」
透は自分でそう言った。言われて思い出した。
※
「中学に上がってからはオマエになったな。背が伸びたから、チビスケでは呼びにくうなったんやろ」
「二年のときですね」
「そんなもんや。爺さんが死んだんは、あんたが三年に上がる前やったから」
梶は麦茶を飲んだ。透の家には冬でも麦茶しかない。
「わしはいまでもあんたやけどな。高校に上がったあたりから、オマエと呼びにくうなった」
「なんでですか」
「知らん。急に大人みたいな顔しよったからやろ」
千鶴が笑った。梶も少し笑って、それから湯呑みを持つ手を止めた。
「けどな」
「はい」
「爺さんは、あんたのことを一遍も名前で呼んどらんな」
※
透は動かなかった。
言われるまで、考えたこともなかった。千鶴もグラスを持ったまま黙っている。
思い返そうとした。小学校の卒業式に祖父は来ていて、校門のところで何か言った。中学の入学式にも来た。透が二年の終わりに祖父は死んだから、思い出せる場面はそこまでしかない。
どの場面にも、名前がなかった。
「呼ばれてないですね」
「呼ばれとらん」
梶は湯呑みを見ていた。
「わしも、いま気づいた。三十年近く一緒におって、いま気づいた」
千鶴が小さい声で言った。
「あたし、変なこと訊きました?」
「訊いてない」
透はそう答えた。訊いてくれなければ、たぶん一生気づかなかった。
※
「他の人のことは、どう呼んでました」
「あの人はな、誰のことも名前で呼ばんかった」
梶は言った。
「浦上さんのことは浦上さんとこの局長さん。うちの婆さんのことは梶さんとこの奥さん。町内会長は会長さん」
「苗字は呼んでるんですね」
「苗字は呼んどる。名前は呼ばん」
梶は少し考えた。
「そういう人やと思うとった。堅い人やと。それだけの話やと思うとった」
※
梶と千鶴が帰ってから、透は控え帳を全部出した。
四十年分、八冊。頁をめくって、名前を探した。
書いてある。預かった相手の欄にも、届けた相手の欄にも、下の名前まできちんと書いてある。浦上音吉。宮下ハル。誰の名前も、省略せずに書いてある。
棚の奥から、古い年賀状の束も出した。祖父が受け取ったまま捨てられずに残っているものだ。
その中に、透宛てのものが一枚あった。
小学校に上がった年に、祖父が孫に出したものだった。
榊透くん
祖父の字だった。
※
書ける。
書けるのに、呼ばない。
透は年賀状を持ったまま、事務所の畳に座っていた。ストーブの芯が鳴っている。外は風の音がする。海からではなく、山から吹き下ろしてくる音だ。
喉の奥に、沈んだものがある。
自分は「ごめん」を失った。祖父は何を失ったのか。




