第30話 三十二年前の名前
「その人って、宛先の人のことです」
千鶴は事務所の入口に立ったまま言った。
「三十二年前に届かんかった相手が、まだ生きてるんですかって意味です」
「そっちか」
「他に何があるんですか」
透は控え帳を閉じた。
浦上ノブのことかと思った、とは言わなかった。言えば、この子は自分の言い方が悪かったと思う。そういう受け取り方をする子だ。
「わからん」
「調べないんですか」
「調べる」
浦上音吉のことを知っている人間は、思ったより少なかった。
三十二年は長い。当時六十代だった人はもう九十を越えているか、いない。
最初に訊いたのは真弓だった。ヤマイチの事務所で、在庫の伝票を数えながら聞いてくれた。
「浦上のおじいさん? うちが生まれる前の人やわ」
「覚えてるか」
「顔は覚えとらん。うちの母さんなら知っとるかも」
真弓は伝票を置いて、その場で電話をかけた。この人はいつも決断が早い。
真弓の母親は、電話の向こうでよく喋った。
『浦上さんね。郵便局におった人よ』
「郵便局ですか」
『局長さんまでやらはった。真面目な人でね、集金でも配達でも、雨の日でも自転車で回っとられた』
「亡くなったのは」
『わたしが三十くらいのときやから、三十年ちょっと前やね。急やった。心臓や』
透は帳面に書いた。
『あの人が死んだときは、町の人がずいぶん来ましたよ。局に世話になった人が多いから』
「浦上さんに、揉め事のようなものはありましたか」
訊いてから、透は自分の質問の粗さに気づいた。
電話の向こうが少し静かになった。
『……なんでそんなこと訊くん』
「言伝の関係です」
『ああ、あんたとこの』
真弓の母は、その一言で納得したらしかった。この町の年寄りはみんなこうだ。
『揉め事は聞いとらん。あの人はそういう人やないもの』
『ただね』
声の調子が少し変わった。
『ノブさんとは、あんまり喋らん夫婦やったと思うわ』
「仲が悪かったんですか」
『そういうんやなくて。あの世代はみんなそうやから。うちの父さんと母さんも、一日に三言くらいしか喋っとらんかったし』
「はい」
『けど浦上さんとこは、それにしても静かやった』
※
千鶴の祖父の藤木さんにも訊いた。
乾物屋の店先で、干物を並べながら答えてくれた。
「音吉さんな。あの人は、局の金のことで一遍、頭を下げて回っとったことがある」
透は箱を運ぶ手を止めた。
「金」
「盗ったとか、そういうんやない。誰かの年金の振り込みが遅れたとか、そんな話や。局長やから、局の失敗は全部あの人が謝りに行く」
藤木さんは干物の向きを揃えた。
「あの人は、そういうときに謝るんが仕事や思うとった人やな」
※
夕方、梶が来た。
この日は白菜だった。半分に割ったものを新聞紙にくるんで持ってきている。
「浦上さんか」
「知ってますか」
「知っとる。年は離れとるけど、局には行くからな」
梶は湯呑みを持った。
「あの人が死んだときの話やろ。爺さんが持越と書いた」
「梶さんは、宛先が死んどったからやと言いましたよね」
「言うた」
「それ、誰から聞いたんですか」
梶の手が止まった。
「……誰からも聞いとらん」
「え」
「わしがそう思うただけや」
梶は湯呑みを畳に置いた。今日は音がした。
「爺さんは何も言わんかった。持越いう言葉も、わしはあんたに聞いて初めて知った。宛先が死んどったんやろというんは、わしの当てずっぽうや」
透は膝の上で手を組んだ。
「なんで、そう思ったんですか」
「あのあと爺さんが、そういう件を受けんようになったからや」
梶は透を見た。
「臨終の場で、これは死んだもんへの言葉やと思たら預からんかった。そうしとった理由が、他に思いつかんかった」
筋は通っている。だが根拠はない。
三十二年、梶はその当てずっぽうを本当のことだと思って生きてきた。透もそれを疑わずに聞いていた。
「浦上さんの奥さんが、爺さんの一言を覚えてました」
「なんて」
「あの人には言えんな、と」
梶はしばらく黙っていた。
「……宛先を知っとったいうことか」
「知ってて届けなかったのかもしれません」
「そうか」
梶はそれ以上、何も言わなかった。
翌日、透は浦上の家をもう一度訪ねた。
ノブは前より少し痩せて見えた。座敷の空気が乾いている。加湿器がひとつ置いてあったが、ノブはそれを止めさせているらしい。音がうるさいのだという。
「調べとるんやってね」
「はい」
「町の人が言うとった。榊さんとこの孫が、うちの人のことを訊いて回っとると」
この町は狭い。
「迷惑でしたか」
「いいえ」
ノブは首を振った。
「嬉しいんです。あの人のことを訊く人が、まだおるいうのは」
透は湯呑みを両手で持った。
「浦上さんは、局のことで謝りに回っていたと聞きました」
「よう回っとりました」
ノブはあっさり言った。
「局の失敗も、部下の失敗も、全部あの人が行きました。頭を下げるんが仕事やと思うとったんやろね」
「奥さんは、それをどう思っていましたか」
「別に。仕事やから」
ノブは少し笑った。
「そういう時代です」
「そのころ、仲の良かった方はいますか」
「わたしのですか」
「はい」
ノブは天井のあたりを見た。思い出すときに上を見る癖があるらしい。
「宮下のハルさんやろね」
透は帳面の上で手を止めた。
「宮下ハルさん」
「知っとるの」
「名前だけは」
この町には宮下姓が多い。漁協にもいるし浜の家にもいる。特にどうということもない名前だった。
「あの人とは、若いころからよう喋りました」
ノブは言った。
「同い年でね。二人とも嫁に来た口やから、はじめは町に知り合いがおらんかった」
「いまも会われますか」
「もう会いません」
ノブの声が少し落ちた。
「あの人も、うちと同じで、家のことを喋らん人になったから」
※
便利堂に戻る道で、雪がちらついた。
この冬の初雪だった。粉のような雪で、地面に落ちる前に消える。この町では毎年こんなふうに降って、たいてい積もらないまま終わる。年に一度か二度、朝だけ屋根が白くなる日がある。それを町の人間は大雪と呼ぶ。
透は歩きながら、帳面の中身を思い返していた。
浦上音吉。郵便局長で、謝りに回るのが仕事だと思っていた人。妻とはあまり喋らなかった。
そして、その妻が三十二年前に一度だけ聞いた祖父の独り言。
あの人には言えんな。
あの人が誰なのかを、祖父はノブにも言わなかった。




