第29話 届かなかった言葉
十二月に入ると、便利堂の仕事は屋根と水回りばかりになる。
雨樋の落ち葉をさらって、外の蛇口に保温材を巻いて、庭木に霜よけの藁を掛ける。透は朝から夕方まで外にいる日が続いた。手が荒れて、指の関節が割れる。
「透さん、これ使ってください」
千鶴がハンドクリームを机に置いた。ヤマイチで買ってきたらしい。
「いらん」
「割れてるじゃないですか」
「毎年割れる」
「毎年割れてるのが問題やって、真弓さんが言うてました」
この二人はいつのまにか繋がっている。透は蓋を開けて、指先に少しだけ塗った。
※
あの朝から、千鶴は毎日ひとことだけ言う。
朝、事務所に入ってきて、ストーブに火を点けて、それから透のほうを向いて言う。
「ごめん」
誰に対してでもない。透が言えなくなった語を、この子が代わりに口にしているだけだ。理由は言わないし、透も訊かない。
最初の数日は落ち着かなかったが、そのうち慣れた。慣れたことのほうが透には引っかかっている。
※
白木から電話があったのは、十二月の半ばだった。
『榊さん、うちの檀家さんでね、あんたに会いたいという人がおるんです』
「依頼ですか」
『いや、それが、そういう話やないみたいで』
白木の言い方が珍しく歯切れが悪かった。
『会うてもろたほうが早いです。浦上さんいうお宅で、おばあさんが九十三です』
「元気なんですか」
『元気です。ただ、そろそろやとご家族は思うてはります』
※
浦上の家は、神社の下の坂道の途中にあった。
古い二階家で、玄関の脇に薪が積んである。いまどき薪風呂を使う家は町に何軒も残っていない。
通されたのは一階の奥の座敷だった。ノブは敷いた布団の上に座っている。九十三には見えなかった。背中は曲がっているが目に濁りがない。
「榊さんとこの」
「透です」
「顔が似とるね」
ノブはそう言って、少しだけ笑った。
※
嫁だという女性が茶を置いてすぐに下がった。気を利かせたのだとわかる下がり方だった。
二人になってから、ノブは言った。
「あんたのお爺さんに、頼んだことがあります」
透は湯呑みを置いた。
「三十二年前です。うちの人が死んだときに」
「音吉さん、ですか」
ノブの眉が動いた。
「なんで名前を知っとるんです」
「祖父の帳面に残っています」
※
ノブはしばらく黙っていた。
「残っとるんですか」
「四十年分あります。日付と、預かった相手と、届けた相手だけですけど」
「それだけ」
「祖父は感想を書かない人だったので」
ノブは布団の上で手を組んだ。指が細い。皮膚が薄くなって骨の形がそのまま見える手だった。
「あの人らしいわ」
※
「榊さん」
ノブは顔を上げた。
「うちの人の言葉は、届いたんですか」
透は答えなかった。
答えを持っていないのではない。持っている。届け先の欄には、名前ではなく二文字だけが書いてある。持越。
持ったまま、という意味だと梶が言った。祖父はそれを一度だけやって、そのあと宛先が死んでいる件を受けなくなった。
「それを、ずっと訊けんかったんです」
ノブの声は落ち着いていた。
「お爺さんが生きとるうちに訊けばよかった。けど、訊いて届いとらんかったら、あの人が困るやろと思うて」
※
「三十二年、訊かなかったんですか」
「訊けんかったんです」
ノブは湯呑みに手を伸ばして、途中でやめた。
「そのうち、お爺さんが死にました。それで、もう誰にも訊けんようになって」
透は座敷の畳を見ていた。
この人は三十二年、答えを待っていた。待つあいだに答えを持っている人間が死んで、それでも待っていた。
喉の奥に沈んだものがある。桑島の声だ。透が死ねば、それも消える。
誰かがいま、透に同じことを訊きに来たら、自分は何と答えるのか。
※
「浦上さん」
「はい」
「訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「音吉さんは、誰に宛てて言い残したんですか」
ノブの目が、少し動いた。
「それは、言えません」
早かった。
「なんで」
「うちの人が、わたしに言わんかったからです」
ノブは布団の上の手を握り直した。
「臨終の場におったんはお爺さんとわたしだけです。うちの人はお爺さんに向かって喋りました。わたしには聞こえんかった」
※
「声は出とったんです」
ノブは続けた。
「けど、耳が遠かったんかね。わたしには音にしか聞こえんかった。お爺さんだけが、はっきり聞いとった」
透は膝の上で手を組んだ。
宛先でない人間には音にしか聞こえない。祖父が受け取ったから、ノブには届かなかったことになる。
「そのあとお爺さんが言うたんです。七日で届けます、と」
「はい」
「わたしは訊きました。誰に届けるんですかと」
ノブはそこで一度、言葉を切った。
「お爺さんは、教えてくれませんでした」
※
外で風の音がした。坂の上から吹き下ろしてくる風で、この町の冬は海より先に山から来る。
「一つだけ、覚えとることがあります」
ノブが言った。
「お爺さん、帰りぎわに玄関で靴を履きながら、ひとりごとみたいに言わはったんです」
透は顔を上げた。
「あの人には言えんな、と」
※
便利堂に戻ってから、透は控え帳の三十二年前の巻を出した。
浦上音吉。届け先、持越。
その前後の頁を何度も見た。九月から十一月まで、記録は淡々と並んでいる。持越の一件だけが、そこに紛れていた。
あの人には言えんな。
祖父は宛先を知っていて、届けなかったことになる。宛先が死んでいたからではないのかもしれない。梶はそう解釈していたが、梶は控え帳を見たことがない。
千鶴が事務所の入口に立っていた。
「透さん」
「うん」
「その人、まだ生きてるんですか」
透は帳面から顔を上げた。
誰のことを言っているのかを、透はすぐには判断できなかった。




