第28話 腐る
六日目に、透は方法を全部潰した。
空港まで行って飛行機に乗る。それだけなら金を借りればできなくもないが、透はパスポートを持っていなかった。申請から受け取りまで一週間はかかると千鶴が調べてきた。
マルリに会う。会えたとしても、その人は宛先ではない。前に立って喉が動かないことは、竹岡さんのときにわかっている。
県外の慰霊碑に行く。あそこに刻まれているのは向こうで亡くなった移民の名前で、マリアの名前はない。世話人が電話でそう言った。あの人は向こうで生まれて、向こうで死んだ人やから、と。
どの道も、二日では届かない。
※
夕方に透は常光寺へ行った。
白木は庫裏の縁側で、火鉢に炭を入れていた。十一月の終わりになると、この寺は本堂より庫裏のほうが暖かい。
「腐らせます」
透がそう言うと、白木は炭を置いた。
「そうですか」
「引き止めないんですね」
「引き止めてどうにかなるんやったら、しますよ」
白木は火箸を火鉢の縁に置いた。
「うちは届けん商売やと、前に言いましたね。届かん言葉をどうするかも、うちの領分やないんです」
※
「和尚さん」
「はい」
「祖父も、腐らせたことがありますか」
白木は火鉢の炭を見ていた。赤い部分が少しずつ広がっていく。
「そう聞いとります」
「何回」
「そこまでは聞いとりません」
白木は顔を上げた。
「ただね、あの人は一遍だけ、うちに来て座っとられたことがあります。用事もないのに、本堂の隅で二時間ほど」
「いつですか」
「わたしが継ぐ前やから、二十年より前です」
透は縁側の板の目を見ていた。
「何か言いましたか」
「一言も」
※
七日目は、朝から雨だった。
十一月の雨は冷たい。事務所の窓を叩く音が細かくて、傘を差すほどでもないのに濡れる種類の雨だった。
千鶴は来なかった。来るなと言ってある。
透は畳に座って喉の奥に意識を向けていた。
熱はまだある。桑島の声が据わっている。うちは怒っとらんと言うといてくれ。届ける相手のいない言葉が、その形のまま透の中で待っていた。
※
昼を過ぎたころ、電話が鳴った。
寺村だった。
『榊さん。あの、余計なことかもしれませんけど』
「はい」
『マルリさんの住所、僕、控えてあるんです。手紙を読んだとき、返事を書くならと思って書き写したんで』
透は受話器を持ち直した。
「桑島さんは、返事を書きましたか」
『書いてないと思います。あの人、書いてくれとは言わはらへんかったんで』
「そうですか」
『榊さん、要りますか』
※
透は少しのあいだ、返事をしなかった。
住所がわかっても、今日中には届かない。そこに行けるのは早くても来月で、そのときには言葉はもう腐っている。
だが要らないとも言えなかった。
「……いただけますか」
『ええですよ』
寺村は番地を読み上げた。透は帳面に書いた。書きながら、これを書き留めても何にもならないことを考えていた。
考えながら、それでも書いた。祖父の控え帳は四十年ぶん、こういう書き留めの積み重ねでできている。
※
日が落ちてからも、雨は止まなかった。
透は明かりを点けずに座っていた。
七日目がいつ終わるのかを、透は正確には知らない。祖父も教えてくれなかった。日付が変わるときなのか、預かった時刻から丸七日なのか。
桑島が死んだのは、六日前の午後だった。
※
午後になって、それは来た。
熱が引いた。
喉の奥で温度を持っていたものが急に冷めて、そのまま下へ落ちていった。胸の高さで止まっていたものが、そこから沈む。
透は畳に手をついた。
沈んだ先に何があるのかは、体の感覚ではわからない。ただ、上のほうが空になったことだけがわかった。器がまた空いている。次に誰かが死ねば、透はまた預かれる。
桑島の言葉は、もう出ていかない。
※
透はしばらくそのまま座っていた。
声を出してみようかと思って、やめた。何を言えばいいのかがわからない。祖父は腐らせたあと三日ばかり口をきかなかったと梶が言っていた。何が失われたか確かめるのが怖かったのだろう、とも。
その気持ちが、いまわかる。
窓の外で雨が続いている。事務所の時計の音が、いつもより大きく聞こえた。
※
翌朝、千鶴が来た。
いつもより早かった。傘を畳んで事務所の三和土に立ち、透の顔を見る。
「終わりました?」
「終わった」
「届かなかったんですね」
「うん」
千鶴は上がってきてストーブに火を点けると、台所へ行って鍋を火にかけた。梶が置いていったものがまだ残っている。
透はその背中を見ていた。
※
言わなければならないことがあった。
この五日、この子は毎日来た。検索して、電話をかけて、乾物屋の配達を早く終わらせてまで来た。昨日は来るなと言われて、それでも来ようとして、玄関の前まで来て帰ったらしい。近所の人が見ていた。
透は口を開いた。
「千鶴」
「はい」
その先が出なかった。
※
難しい言葉ではない。
三文字で、毎日使う言葉だ。子どもでも言える。透はさっきまで、その語を持っていた。
喉の手前まで来ている感覚はあるし、形もわかる。口の開き方も舌の位置も知っている。
出てこない。
透は口を閉じて、もう一度開けた。同じだった。何かが抜き取られたあとの穴に、指を入れて探しているような感じがする。指が届かない。
「透さん?」
千鶴が振り返っていた。
※
透は千鶴を見て、それから頭を下げた。
深く下げた。言葉の代わりになるものが、それしかなかった。
千鶴はしばらく黙っていた。それから、鍋の火を弱めて、透の前に来て座った。
「なくなったんですか」
透はうなずいた。
「何が」
透は答えられない。答えようとすれば、その語を使うことになる。
千鶴は少し考えて、それから言った。
「あたしに言おうとした言葉ですか」
うなずいた。
「じゃあ、言わなくていいです」
千鶴は立ち上がって、台所に戻った。
「あたし、聞かなくてもわかるんで」
※
鍋が煮えるまで、二人とも喋らなかった。
千鶴は椀を二つ出して、汁をよそって、片方を透の前に置いた。里芋の切り方が大きい。梶は面取りをしない。
「食べてください」
透は椀を持った。
「透さん」
「うん」
「あたし、その言葉、代わりに言いますね」
千鶴は自分の椀を持ったまま、透を見た。
「ごめん」
透は椀を持つ手を止めた。
「透さんが言えないぶん、あたしが言います。今日から」
※
汁は温かかった。
外の雨はまだ続いている。十一月の雨は長い。この町では、これが降り終わると本格的に寒くなる。
透は椀を両手で持ったまま、喉の奥を意識していた。
沈んだものは動かない。桑島の声はそこにある。届かなかった言葉を抱えるのは、これが初めてだった。
※
その日の午後、宇野から電話があった。
桑島の相続人が見つかったという。県外に住む姪だった。連絡が取れて、遺骨と家財の引き取りについて話が始まったらしい。
「手紙は」
『姪御さんにお渡しします。ご遺品ですから』
「わかりました」
『榊さん』
宇野の声が、少し違った。
『あんた、探しとった人には会えたんですか』
透は受話器を持ち直した。
「会えませんでした」
『そうですか』
宇野はそれ以上訊かなかった。
※
電話を切ってから、透は控え帳を開いた。
白紙の頁のいちばん上に線を引いて、祖父の書き方をまねて日付を入れた。預かった相手の欄に、桑島与一と書く。
届けた相手の欄で、手が止まった。
持越、と書くかどうかを迷った。祖父はその二文字を四十年で一度しか使っていない。透は一度目でそれを書くことになる。
結局、透は空欄のままにした。
書けなかったのではない。書いてしまうと、終わったことになる気がした。




