第27話 寺村カルロス
五日目の朝に、透は世話人へもう一度電話をかけた。
昨日と同じ、二度目のコールで出た。年寄りの一人暮らしは電話の近くにいる。
『榊さん』
「昨日はありがとうございました」
『いえいえ』
「もう一度だけ、伺いたいことがあります」
透は受話器を持ち替えた。
「桑島さんが会で手紙を見せたとき、読める人はいましたか」
世話人はしばらく考えていた。
『おりました』
「いたんですか」
『あのとき、若い人が一人来とったんです。三世の子でね、日本で働いとりました』
「その方は」
『読んでくれましたよ。声に出して、日本語にしながら』
透は帳面を開いた。手が少し急いだ。
「その方の連絡先は」
『会報を送っとるから、住所はあります。電話も、たぶん』
世話人は受話器を置いて、探しに行った。戻ってくるまでにしばらくかかった。
※
寺村という姓だった。下の名前はカタカナでカルロスとある。
千鶴が横で「日系の人って、そういう名前多いです」と言った。
電話は昼過ぎに繋がった。工場の休憩時間だと本人が言った。
『クワジマさん、亡くなったんですか』
声は若かった。日本語に訛りはない。
「四日前です」
『そうですか』
少し間が空いた。
『あの人、いい人でしたよ。会でいつも饅頭くれた』
「手紙のことを伺いたいんです」
『覚えてます』
寺村は即答した。
『あれは覚えてる。ずっと覚えてます』
透は受話器を握った。
「読まれたんですね」
『読みました。クワジマさんに頼まれて。何年前かな、七、八年前です』
「内容を、教えてもらえますか」
電話の向こうで、缶を開ける音がした。
『……それ、僕が言っていいことですか』
透は答えを探した。
いいことではなかった。他人宛ての手紙の中身を、関係のない者が別の誰かに伝えることになる。
「桑島さんが、届けてほしいと言い残しました」
「誰にです」
「マリアという人に」
電話の向こうが静かになった。
缶を置く音がした。
『……マリアさんに?』
『榊さん。あの手紙、マリアさんからやないんですよ』
「差出人は、マルリという名前でした」
『マルリさんです。マリアさんの娘さんです』
透は帳面に書いた。書きながら次に来る言葉を予想していた。こういう予想はたいてい外れるのに、今回は当たってしまった。
『あの手紙はね、お母さんが亡くなったという知らせでした』
※
窓の外で風が強くなっていた。
十一月の海風は音が違う。乾いていて隙間を探すように鳴る。
「いつ亡くなったと」
『手紙が来る前の年やと書いてありました。だから、もう八年か九年前になります』
「桑島さんは」
『読んで聞かせたとき、うんうん、って言うてはりました。それだけです』
寺村の声が低くなった。
『驚いてはらへんかった。もう知っとったみたいな顔で』
「他には、何が書いてありましたか」
『母は最後まであなたを悪く言わなかった、と』
寺村は続けた。
『長い手紙やなかったです。便箋三枚あったけど、半分は挨拶みたいなもんで。娘さんも日本語は書けんから、向こうの言葉で丁寧に書いてはった』
「桑島さんは、何か言いましたか」
『いや。ありがとう、とだけ』
透は帳面の上で手を止めた。
『あ、ひとつだけ』
寺村が思い出したように言った。
『あの人、読み終わったあとで、もう一回読んでくれ、って言わはったんです』
電話を切ってから透はしばらく座っていた。
千鶴が向かいに座って何も言わずに待っている。
「マリアさんは、亡くなってる」
「え」
「八年か九年前だ。桑島さんは知ってた」
千鶴の顔から表情が抜けた。
「知ってて、届けてくれって」
「そうなる」
「じゃあ、あの言葉、どこにも行けないじゃないですか」
透は喉に手を当てた。
熱はまだある。桑島の声が、うちは怒っとらんと言い続けていた。宛先はこの世にいない。ブラジルのどこかに墓があるはずだが、その場所を透は知らないし、期限までに行けるはずもなかった。
※
沖田宗一郎のときは、届いた。
あのときは骨があった。防風林の松の根元に、首輪の金具と一緒に埋まっていた。透はそれを掘り出して、桐の箱に入れて、庭の石の下に納めた。そこで言葉が出た。
なぜ出たのかは誰にも説明できないまま、それでも出た。
今回は骨も墓もない。地球の裏側にあるものを、透は動かせない。
あのときは届いた。今回は届かない。
その差が何なのかを考えても、答えは出なかった。自分が何を基準に選ばれているのかも、選ばれていないのかもわからない。届く相手と届かない相手を決めているのは自分ではない、と思うことにしている。思うことにしているだけで、納得したことは一度もなかった。
※
夕方に梶が来た。
鍋は持っていなかった。代わりに大根を抱えている。もらいものだという。
話を聞いて、梶は湯呑みを両手で包んだ。
「腐るな、それは」
「腐ります」
「あんた、腐らせたことあるか」
「ありません」
「そうか」
梶は湯呑みを畳に置いた。音は立たなかった。
「爺さんはな、腐らせたあと、三日ばかり口をきかんかった」
「そんなに」
「喋れんかったんやと思う。何が出てこんようになったんか、確かめるのが怖かったんやろな」
※
千鶴が台所で大根を洗っている。水の音が事務所まで聞こえていた。
透は控え帳の白紙の頁を開いた。
祖父はここに何も書かないまま死んだ。腐らせた記録も、腐らせなかった記録も、四十年ぶんの後ろには何もない。
白木が言っていた言葉を思い出した。祖父が酔ったときに漏らしたという一言だ。
届けられんかったもんは、どこに行くんやろうな。
いま、それが自分の喉にある。
あと二日で、答えが出る。




