第24話 入らない理由
朝、事務所の流しに鍋が置いてあった。
蓋を開けると、けんちん汁だった。里芋の切り方が大きい。梶は面取りをしない。
鍵はかけていなかった。この町の家はだいたいそうだ。透が寝ているあいだに置いていったのだろう。
千鶴が九時に来て、鍋を見て言った。
「梶さん来たんですか」
「らしいな」
「会ってないのに、わかるんですね」
「里芋がでかい」
千鶴は蓋を閉めて、火にかけた。
※
梶が顔を出したのは十時前だった。
「食うたか」
「これから食う」
「朝に食え。昼まで置いといたら味が変わる」
梶は上がり框に座って、勝手に湯呑みを出した。千鶴が麦茶を注ぐ。十一月に麦茶を出すのはどうかと透は思ったが、二人とも気にしていない。
「軽トラ、車検いつや」
「二月」
「戸倉に早う言うとけ。あそこ、年明けは混む」
「言っとく」
「言うとけよ。去年は切れる寸前やったやろ」
千鶴が横で吹き出した。
「透さん、車検切らしかけたんですか」
「切らしてない」
「切らしかけたんは切らしかけたんや」
梶はそう言って、麦茶をひと口飲んだ。
桑島の話をすると、梶の手が止まった。
「桑島さんな。ブラジルに行っとったんは、ほんまや」
「知ってたんですか」
「わしより七つ上や。子どものころは知らんけど、帰ってきてからは造船所で一緒やった」
梶は湯呑みを畳に置いた。
「あの人、向こうの話はせんかった。誰が訊いてもせん。それだけは覚えとる」
「マリアという名前は」
「聞いたことないな」
梶は少し考える顔をした。
「けど、あの人が黙っとった理由が、それやったかもしれん」
※
午後、透は役場へ行った。
楓は昼休みを潰して、この前と同じ小部屋に透を入れてくれた。
「桑島さんの件ですね」
「戸籍から、家族関係を辿れませんか」
楓はボールペンをノックした。それからノックし返した。
「無理です」
早かった。
「戸籍も除籍も、取れるのは本人と配偶者と直系の親族だけです。第三者は取れません。榊さんは、桑島さんの何にもあたりません」
「はい」
「わたしは職務で見られます。でも見た内容を榊さんに伝えたら、それは漏らしたことになります」
楓はボールペンを置いた。
「この前は言えました。今回は言えません」
「違いは」
「この前は、榊さんが寺と町内会の窓口として関わっていました。今回はそれもありません」
透は膝の上で手を組んだ。
筋の通った話だった。通っているから、動かしようがない。
「家に入るのも駄目ですよね」
「駄目です」
楓は即答した。
「相続人がいるかどうかもまだわかりません。持ち家ですから、勝手に入れば住居侵入です。宇野さんが立ち会ったのは、あのときは人命の話だったからで」
「わかりました」
「わかってもらえると助かります」
楓はそこで少しだけ言い方を変えた。
「わたし、榊さんの邪魔をしてます」
「してません」
「してます。自分で言ってるんだから間違いないです」
透は少し笑った。この人は自分の立場を自分で罰する癖がある。
「氷見さんがやらなくても、誰かがやります。それが規則ですよね」
「規則です」
「じゃあ、氷見さんのせいじゃない」
楓はしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
※
役場を出て、透は港へ回った。
桑島の家の前を通る。雨戸は開いたままだった。宇野が開けて、そのままになっている。玄関に鍵はかかっているはずだ。透は門の外から中を見た。
入れば早い。台所にも仏間にも、たぶん手がかりがある。
入らない理由は規則だけではなかった。祖父の控え帳に、そういう入り方をして得た情報の記録は一件もない。四十年ぶんの記録が全部、正面から入って手に入れたものだ。
透は門から離れた。
ヤマイチに寄ると、真弓がレジの奥にいた。
「透やん、また来た」
「訊きたいことがある」
「桑島さんやろ」
真弓は透が言う前に言った。
「町でその話しか出とらんもん。あの人、身寄りおらんかったからね」
「ブラジルの話、もう少し知ってる人はいるか」
真弓はレジ台に肘をついた。
「うちのじいちゃんの兄さんが行っとるって言うたやろ。あの人はもう死んどるけど、県外に集まりがあるんよ」
「集まり」
「移民で行った人らの、県人会みたいなやつ。年に一回、慰霊祭やっとる」
真弓は指でレジ台を叩いた。
「桑島さんな、毎年それに行っとったんちゃうかな」
※
常光寺に寄ったのは、日が傾いてからだった。
白木は本堂の掃除をしていた。十一月の本堂は、朝より夕方のほうが冷える。
「桑島さん、うちの檀家です」
白木は箒を止めずに言った。
「けど、盆に来はったことは一度もありません」
「一度も」
「先代のころからそうやと聞いとります。うちは何も言いません。そういう家もあります」
白木は箒を壁に立てかけた。
「代わりにね、毎年八月になると、県外へ行っとられました」
「どこか、わかりますか」
「聞いたことはあります。バスで行くとおっしゃっとった。年寄りが集まって、慰霊碑の前で手を合わせる会やと」
白木は本堂の柱に寄りかかった。
「あの人、こう言うてはりました。うちの寺には来られんけど、あっちには行かんとあかんのですと」
※
便利堂に帰る道で、透は考えていた。
行かなければならない場所が、この町の外にある人だった。盆に寺へ来ず、八月に県外へ行く。誰も訊かないから、誰も知らない。
マリアという名前を、桑島は五十年黙っていたことになる。
黙っていた人の言葉を、いま自分が持っている。届けろと言われている。
喉の奥のものが、まだ熱を持っていた。飲み込んだときから温度が下がらない。これまでのどれとも違う。
なぜ違うのかは、わからなかった。
わからないまま五日が過ぎれば、この熱は腐る。透はその手前で、まだ何ひとつ掴んでいない。




