第23話 鍵の開いていない家
ヤマイチの駐車場は、平日の午前でも半分埋まっている。
この町で買い物ができる場所はここしかない。商店街の店は魚屋と乾物屋と酒屋が残っているだけで、あとはシャッターが下りている。
透は灯油のポリタンクを二つ、軽トラの荷台から降ろした。店の裏手に給油機がある。
「透やん」
振り返ると店長の保坂真弓が立っていた。エプロンのポケットに検品用の端末を差している。小中高が同じで、いまも呼び方が中学のころから変わらない。
「灯油、まだ値上がりするらしいよ」
「そうか」
「そうかって、あんた仕事で使うやろ」
「使う」
「じゃあ今のうちに入れとき」
真弓は勝手にレバーを操作して給油を始めた。透は横で立っているだけになった。
「千鶴ちゃん、週四になったんやってね」
「なんで知ってる」
「乾物屋のおばちゃんが言うとった」
真弓は給油機の数字を見ながら喋る。この人はいつも二つのことを同時にやっている。
「あの子、あんたのこと心配しとるよ」
「心配されるほどのことはない」
「あるやろ。あんた去年、正月に何食べた」
透は答えられなかった。
「ほら」
「……覚えてないだけだ」
「覚えてないのが問題やろ」
給油が止まった。真弓はノズルを戻して、伝票を書いた。
※
便利堂に戻ったのは十一時前だった。
千鶴が事務所の窓を拭いている。頼んでいない。この子は最近、頼んでいない仕事を勝手に増やしている。
「透さん、電話ありましたよ。桑島さんとこの近所の人から」
「桑島さん」
「桑島与一さん。七十八歳。港のほうの一軒家です」
千鶴はメモを読み上げた。字が丁寧になっている。これも最近の変化だった。
「新聞が三日たまってて、雨戸も閉まったままやと。それで、駐在さんに連絡したそうです」
千鶴はメモをもう一行読んだ。
「駐在さんから折り返しがあって、鍵が開かんかったら開けてほしいと」
透は作業着の袖を戻した。
「行く」
「あたしも行きます」
「今回は来るな」
千鶴は雑巾を持ったまま透を見た。それから何も言わずに、事務所の隅から工具箱を出して透に渡した。
※
桑島の家は港の東側にあった。
平屋で、玄関の前に自転車が一台停めてある。前かごに新聞が三部差してあった。近所の人が抜いて入れておいたのだろう。
門の前に駐在所の宇野が立っていた。制服の上に防寒着を着ている。四十過ぎで、この町に来て六年になる。
「榊さん、悪いね」
「開かないんですか」
「裏も勝手口も閉まっとる。窓も全部内側から」
宇野はインターホンをもう一度押した。応答はない。雨戸を叩いて名前を呼んだが、返事もなかった。
近所の女が門の外に立っている。連絡をくれた人だ。
「昨日も一昨日も、電気が点かんかったんよ」
宇野は無線で何か伝えてから、透のほうを向いた。
「開けてもらえますか。中で倒れとる可能性があるんで、こっちの判断で入ります。榊さんは開けるだけでええですから」
「わかりました」
透は工具箱から金属の板と細いピックを出した。鍵をなくした家に呼ばれることが年に何度かある。便利屋の仕事にはこれが要る。ただし自分の判断で開けたことは一度もない。頼まれるのは家の人か、こういうときの警察官だ。
古いディスクシリンダーだった。三十秒もかからなかった。
宇野が先に入った。透はその後ろに続いた。
玄関を開けると、暖房の匂いがした。
石油ストーブだ。つけっぱなしになっている。十一月の家の中としては暑すぎた。
「桑島さん。警察です」
宇野が声を張った。返事はない。二人とも靴を脱いだ。
台所に、茶碗が一つ伏せてある。流しは乾いていた。テレビは消えている。
奥の部屋の襖が半分開いていた。
※
桑島与一は、こたつの横で横向きに倒れていた。
布団の端を掴んだ形のまま、腕が伸びている。掴もうとして届かなかったのか、掴んでいたものが外れたのかはわからない。
宇野が先に膝をついた。
「桑島さん。聞こえますか」
肩に触れて、それから首筋に指を当てた。
「ある。呼吸も」
宇野は無線を口元に寄せて、救急要請を伝え始めた。透はその横で膝をついた。
桑島の胸が動いていた。ごくわずかに、間隔を空けて。
宇野は玄関と門の様子を近所の人に説明しに出た。救急を誘導するためだ。透は残った。
動かすなと言われている。楽な姿勢のままでいいと。そのあいだも桑島の呼吸は続いていた。ゆっくり吸って長く止まる。また吸う。
透は上着を脱いで丸めて頭の下に差し込んだ。それしかできることがなかった。
目は開いていた。半分だけだ。焦点はどこにも合っていない。
「救急車、来ますから」
言いながら透は自分の内側に意識を向けていた。
まだ立っていない。器は空いていない。この人はまだこちらにいる。
※
救急はなかなか来なかった。
着く少し前だった。
桑島の呼吸が変わった。胸が動かなくなって、代わりに顎が持ち上がった。口が開いて閉じて、また開く。喉の奥で音が鳴った。
透の中に、あの静けさが立った。
やめてくれと思う暇もなかった。器はもう空いていた。
桑島の唇が動いた。
声は出ない。それでも透に届いた。
「マリアに」
桑島の声だった。老人の声ではない。腹から出ている。鉄を打つ音の向こうまで届かせるための出し方だった。
「マリアに、うちは怒っとらんと言うといてくれ」
透は口を閉じた。
入ってきた。今度は熱かった。飲み込んだものが喉の途中で止まって、そこでしばらく熱を持っていた。
顎の動きが二度あって、三度目はなかった。
※
玄関の外でサイレンが止まった。
救急隊が入ってきて、透は部屋の隅へ下がった。宇野が状況を説明している。処置は始まったが長くはかからなかった。隊員の一人が時計を見た。
透は廊下に立っていた。
ストーブがまだ燃えている。誰も消していない。
外に出ると、近所の人が三人集まっていた。真弓もいた。ヤマイチの制服の上にコートを着ている。
「あんた、大丈夫け」
「大丈夫だ」
「顔が白いよ」
真弓は透の腕を掴んで、少し離れたところへ引っ張った。人の輪から出したのだとわかった。
「桑島さん、身寄りは」
「いない。奥さんは十年くらい前に亡くなって、子どもはおらん」
真弓は即答した。この人はこの町の家族構成をだいたい把握している。
「マリアという名前に、心当たりはあるか」
真弓の眉が動いた。
「マリア」
「知ってるか」
「知らん。けど」
真弓は少し考えた。
「桑島さんとこ、昔ブラジルに行っとったんちゃうかな」
透は真弓を見た。
「ブラジル」
「戦後にな、この辺から出た人がおるんよ。移民や。うちのじいちゃんの兄さんも行っとる」
真弓はコートの襟を立てた。海からの風が強くなっていた。
「桑島さんは、たしか若いころに向こうにおって、途中で帰ってきた人や。造船所に入る前の話やから、五十年くらい前かね」
「戻ってきた理由は」
「知らん。そこまでは聞いとらん」
真弓は自転車の前かごの新聞を見た。三部とも湿っている。
「透やん。マリアって、向こうの名前やろ」
※
便利堂に帰る道で、透はハンドルを握ったまま考えていた。
届けるには宛先の前に立たなければならない。電話でも手紙でも届かない。祖父の代からそうだ。
もしマリアがブラジルにいるなら、七日で会いに行けるだろうか。
行けたとして、その人は生きているだろうか。
喉の奥のものは、まだ熱を持っていた。この熱が七日目にどうなるのかを、透は知らない。腐るところまで持ったことが一度もないからだ。




