第22話 呼ばなかった
竹岡ハツが亡くなったのは、それから六日後だった。
電話をくれたのは佳代だった。朝の八時前で、透はまだ布団の中にいた。
『今朝です。眠ったままでした』
「……そうですか」
『こたつで寝てました。夜のうちに、そのまま』
透は受話器を持ったまま、天井を見ていた。
『あの日から毎日、こたつに入ってました。まだ十月やのに、暑い暑い言いながら』
※
葬儀は常光寺だった。
白木が経を読み、本堂は前のほうの席が埋まった。ハツは実の母で、実の葬儀は伏せて行われたから、この日、二つの死がまとめて町に知られることになった。
「息子さんも、ついこの前に」
「そうらしいわ」
「知らんかった」
「誰も知らんかったんや」
焼香の列で、そういう会話が交わされていた。佳代を責める声ではなかった。ただ、驚いている声だった。
透は列の後ろに並んだ。
喉の奥に、何も入っていない。器は空のままだ。
精進落としの席で、佳代が透の隣に来た。
喪服のまま、折詰も持たずに座った。
「榊さん」
「はい」
「あの日から、母は毎日こたつに入ってました」
「聞きました」
「十月にこたつなんて、暑いに決まってるんです。でも出せって言われて、出しました」
佳代はそこで一度、言葉を切った。
「母は、こたつで実の話ばっかりしてました。子どものころの話です。実が小学校で川に落ちた話とか、高校で原付を勝手に買うた話とか。同じ話を、日に三回くらい」
「はい」
「わたし、聞いたことのない話もありました」
「あの六日は」
佳代は湯呑みを見ていた。
「あの六日は、あってよかったと思います」
透は膝の上で手を組んだ。
「そう言ってもらえると」
「でも」
佳代は透を見なかった。
「あの六日がなかったら、母はもっと長く生きたかもしれません」
言葉が出なかった。
「先生は、そんなことはないと言いました。心臓が限界だったし、いつ止まってもおかしくなかったと」
佳代は続けた。
「でも、それは慰めです。わたしにはわかります。母は、知ってから、力を抜いたんです」
「……力を」
「待つのをやめたんです。あの子が帰ってくるのを」
佳代は湯呑みを両手で包んだ。
「待ってるあいだは、人は死なんのやないですか」
透は答えられなかった。
答えを持っていなかった。
届けたのは自分だ。だが届けると決めたのは、この人と、この人の母親だった。誰の判断が正しかったのかは、どこにも書いていない。
「すみません、こんな話」
佳代は湯呑みを置いた。
「責めてるんやないんです。ほんまに」
「わかってます」
「わかってません」
佳代は初めて透のほうを向いた。
「わたし、自分でもどっちかわからんのです。よかったとも思うし、余計なことをしたとも思う。両方あるんです、同時に」
「もうひとつ、言うておきたいことがあります」
佳代は喪服の膝を伸ばした。
「母が亡くなる前の晩、少しだけ目が覚めたんです」
透は顔を上げた。
「何か言おうとしてました。口が動いてました」
「……」
「わたし、榊さんを呼ぼうかと思いました」
佳代の指が、膝の上で組まれた。
「呼べば、榊さんが来て、母の最後の言葉を預かってくれるんやろなと思いました。それが仕事なんやろなと」
「はい」
「でも、呼びませんでした」
※
寺の広間は、まだ人の話し声で埋まっている。誰も、この会話を聞いていない。
「なんでですか」
訊いたのは透だった。訊くつもりはなかったのに、口が動いた。
「もう、いいと思ったんです」
佳代は言った。
「母は聞くべきものを聞きました。あとは、わたしが聞けばよかった」
「聞けましたか」
「聞こえませんでした」
佳代の目が、少しだけ動いた。
「口は動いてたのに、声にならなくて。わたしが耳を近づけたときには、もう寝てました。それきりです」
※
透は湯呑みの中を見た。茶はもう冷めている。
あの晩、自分がその場にいれば、預かれたかもしれない。ハツが最後に言おうとした一言は、いまごろ自分の喉の奥に据わっていたかもしれない。
だが佳代は呼ばなかった。
呼ばなかったことを、透は責められない。責める理屈がない。
消えたのだ。誰にも届かず、誰にも預けられず、そのまま。
この町では、たぶん毎日、そういうことが起きている。四十年ぶんの控え帳に書かれているのは、間に合ったぶんだけだ。
「榊さん」
佳代は立ち上がった。
「請求書、出してくださいね」
「はい」
「庭の分と、それから」
佳代は少し考えて、それからやめた。
「庭の分だけでいいです。あとのは、値段がつかんでしょう」
「……はい」
「兄が、あなたに世話になりました」
佳代は頭を下げて、別の席へ行った。
※
寺を出ると、楓が門の外にいた。
喪服ではない。役場の制服のままだった。昼休みに抜けてきたらしい。
「終わりましたか」
「終わりました」
二人で参道を歩いた。銀杏がまだ緑で、地面には何も落ちていない。
「氷見さん」
「はい」
「意見、変わりましたか」
楓は少し歩いてから答えた。
「変わりません」
「そうですか」
「わたしはいまでも、届けないほうがよかったと思っています。竹岡さんのお母さんが喜んだことと、それは別です」
楓は前を向いたまま言った。
「でも、榊さんが届けてよかったとも思ってます。両方です」
「両方ですか」
「両方です。おかしいですか」
「いえ」
透は言った。
「佳代さんも、同じことを言ってました」
※
その夜、梶が来た。
千鶴が麦茶を出して、三人で事務所に座った。
「終わったんやってな」
「終わりました」
梶は湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。
「爺さんはな、こういうときに何も言わんかった」
「言わない」
「終わったあとは、飯食うて寝るだけや。良かったも悪かったも言わん。わしが訊いても、そうか、としか言わんかった」
梶は湯呑みを畳に置いた。
「わしはな、あれを冷たい人やと思うとった。長いこと」
「いまは」
「わからん」
梶は透を見た。
「けど、良かった悪かったを毎回背負うとったら、四十年はもたんやろな」
※
梶が帰ってから、千鶴が事務所の床に座り込んだ。
「透さん」
「うん」
「あたし、あの日のこと、よかったと思ってます」
「そうか」
「でも、佳代さんが言うてたことも、わかるんです」
千鶴は膝を抱えた。
「なんか、全部わかっちゃうと、しんどいですね」
透は帳面を開いた。白紙の頁を見て、また閉じた。
「しんどいな」
「透さん、いつもこうなんですか」
「いつもだ」
「じゃあ、しんどいのを十年くらいやってるってことですか」
「十三年だ」
「数えてるんですか、そこ」
「爺さんが死んだ年から数えると、そうなる」
千鶴はしばらく黙っていた。
「あたし、明日から週四で来ます」
「増やさなくていい」
「増やします」
※
十一月に入ると、町は急に暗くなった。
日が落ちるのが早い。四時半には商店街に明かりが点く。三つに一つは切れたままだ。
依頼の中身も変わった。網戸を外して雨戸を直す。灯油タンクを点検する。屋根の雪囲いの見積もりが入り始める。この町の冬は、来るとわかっている災害のようなものだ。
透は事務所の窓から、暮れていく商店街を見ていた。
冬が来る前に、屋根の見積もりを回らなければならない。今年も同じ家から同じ依頼が来る。この町の一年は、そうやって回っている。




