第20話 口を開けない
電話が鳴ったのは、夜の九時前だった。
『竹岡です』
佳代の声は、昨日より落ち着いていた。落ち着きすぎている、と透は思った。
『決められません』
「はい」
『一日考えて、それが答えです。すみません』
透は受話器を持ち直した。
「わかりました」
『わかったって、榊さん、明日で』
「明後日です。まだ一日あります」
電話の向こうで、佳代が息を吸う音がした。
『明日、庭に来てもらえますか』
「条件があります」
佳代は言った。
『母には、届けないでください。明日は、ただ庭の仕事をしに来てください』
「ハツさんに会わせる、ということですか」
『会ってから決めてほしいんです。榊さんが、じゃなくて、わたしが』
佳代の声が少し掠れた。
『わたし、母がいまどんな顔をしてるか、毎日見てるのに、わからなくなってて。他人の目で見てもらったら、何かわかるかもしれないと思って』
透は事務所の壁を見ていた。
届けないという条件で、宛先の前に立つ。
できないことではない。言葉が出るのは、口を開いたときだけだ。閉じていれば出ない。
つまり明日、透は一言も喋れない。
「わかりました。行きます」
※
翌朝、透は千鶴を連れていった。
「え、なんであたしも」
「喋る役がいる」
「意味わかんないです」
軽トラの助手席で、千鶴は納得のいかない顔をしていた。透は運転しながら説明した。
「俺は明日まで、あの家で口を開けない。開けたら出る」
「あ」
千鶴が身を乗り出した。
「じゃあ、透さん、無言で庭木切るんですか」
「そうだ」
「めっちゃ怖いですよ、それ」
「だから、お前が喋る」
千鶴はしばらく黙って、それから小さく言った。
「……了解です」
※
竹岡の家に着くと、ハツは縁側にいた。
毛布を膝にかけて、日の当たるほうを向いて座っている。十月の朝は冷えるが、この人は外にいたがるのだと佳代が言っていた。
「榊さん、来たん」
透は会釈をした。
「あら、今日はお連れさん」
「あ、はじめまして。藤木千鶴です。乾物屋の孫です」
「藤木さんとこの。あんた、大きなったねえ」
「知ってるんですか」
「知っとるよ。お宮参りのとき見とる」
千鶴が「うわ、こわ」と言って、ハツが笑った。笑うと目のまわりの皺が全部動く。第一印象のとおりの人だった。
透は脚立を立てて、山茶花の生垣に取りかかった。
鋏を入れる。手を動かしているぶんには、何も問題がない。
問題は、喉だった。
この家に入った瞬間から、ずっと動いている。舌の付け根が持ち上がって、何かがそこまで来ている。奥歯を噛んで、口を閉じたまま息をする。鼻から吸って、鼻から吐く。
三十分もすると、顎が痛くなってきた。
「榊さん」
ハツが縁側から声をかけた。
「今日は、静かやね」
透の手が止まった。
千鶴が縁側のほうへ走っていった。
「あの、透さん、喉やられてて。声出ないんです」
「あら、風邪」
「そうです。夏の疲れが出たとかで」
「もう秋やのに」
「秋に出るんです、あの人は」
ハツがまた笑った。
※
昼前に、佳代が縁側に茶を運んできた。
透にも湯呑みが出た。透は受け取って、両手で持ったまま、飲まなかった。飲むには口を開けなければならない。
佳代がそれに気づいた。
目が合って、佳代がわずかに首を振った。すみません、という意味だと透にはわかった。
千鶴が代わりに二杯飲んだ。
※
ハツは、よく喋る人だった。
千鶴が相手をしていると、話が次から次へと出てくる。乾物屋の初代のこと、商店街に映画館があったころのこと、去年の台風で屋根が飛んだ家のこと。
その合間に、ぽつりと混ざった。
「実がね、こたつ出しに帰ってくるん」
千鶴の背中が、わずかに固くなったのが透にはわかった。
「毎年、十一月の終わりに。もう二十年になるかね」
「そうなんですか」
「わたしが出すいうても、聞かんの。腰やるから言うて」
ハツは膝の毛布を撫でた。
「今年も来るやろか」
千鶴は答えなかった。
答えられなかったのだと思う。透も、答えられる立場ではなかった。
佳代が奥から出てきて、明るい声で言った。
「来るよ、そら。あの人、それだけは休まんもん」
「そやね」
ハツはうなずいた。
うなずき方が、少し遅かった。
※
午後、生垣を終えて、松に移った。
脚立の上から、縁側が見える。ハツが千鶴に何か話していて、千鶴が身振りを交えて答えている。ときどきハツが笑う。
その姿を見ながら、透は考えていた。
この人は、知らない。
息子が入院していると思っている。こたつの季節に帰ってくると思っている。だから縁側で日を浴びて、十一月のことを話している。
それを壊す資格が、自分にあるのか。
喉の奥のものが、また動いた。
※
三時ごろ、ハツが部屋へ入った。薬の時間だという。
佳代が庭に出てきて、脚立の下に立った。
「榊さん、すみません。今日は」
透は首を振った。それから、作業着のポケットから小さなメモ帳を出した。便利屋の見積もり用のものだ。
鉛筆で書いた。
だいじょうぶです
佳代がそれを読んで、少し笑った。
「筆談って、久しぶりに見ました」
透はもう一枚めくって、書いた。
ハツさんは、実さんが帰ってくると思っています
佳代の顔から笑いが消えた。
「……はい」
それでいいと思います
佳代がメモを見つめた。
でも、こたつの季節が来ます
佳代はしばらく、そのメモを見ていた。
「わかってます」
小さな声だった。
「十一月になって、兄が来なくて、それでも入院してるって言い続けるんですよね。母が死ぬまで」
透はうなずいた。
「そのあいだ母は、待つんですよね」
うなずくしかなかった。
佳代は縁側のほうを見た。ハツのいない縁側に、膝掛けの毛布が畳んで置いてある。
「わたし、母に何回嘘つくんやろ」
※
仕事を終えたのは、四時過ぎだった。
道具を軽トラに積んで、透は門のところで一度振り返った。
縁側に、ハツが戻ってきていた。手を上げている。
透は頭を下げた。声を出せないぶん、深く下げた。
軽トラに乗って、門を出て、二百メートルほど走ってから、透は路肩に停めた。
窓を開けて、大きく口を開けた。
何も出なかった。宛先から離れれば、言葉は動かない。
透は顎の付け根を指で押した。半日、噛みしめ続けた場所だ。押すと鈍く痛んだ。
「透さん」
助手席の千鶴が、前を見たまま言った。
「あたし、今日、しんどかったです」
「悪かった」
「透さんに謝られると、もっとしんどいです」
千鶴はシートに深く座り直した。
「あのおばあちゃん、たぶん、気づいてますよ」
透は千鶴を見た。
「なんでそう思う」
「わかんないです。でも、今年も来るやろかって訊いたとき、あれ、答えを聞きたい訊き方じゃなかったです」
明日が七日目になる。




