第19話 決めてもらう
昼の混雑が引いた喫茶店で、佳代は楓を見た。
窓際の四人掛けに、佳代と透が向かい合い、楓は透の隣へ座っている。店の奥では、マスターが洗ったカップを棚へ戻していた。
「こちらは?」
「氷見楓です。町役場に勤めていますけど、今日は仕事ではなく個人的に来ました」
楓は鞄へ手を入れかけ、途中でやめた。
「名刺を出すと、役場から来たみたいになるので」
佳代は一度だけ頷いた。
透は、竹岡家へ行けなかった理由から話した。
榊の家には、亡くなる間際の言葉を預かる役目があること。実が庭で倒れたとき、その言葉が自分の中へ入ったこと。届けられる期限があり、宛先本人の前へ立てば、自分の都合で止められないこと。
佳代は質問を挟まずに聞いていた。
「つまり、兄の言葉を持ってるんですね」
「はい」
「母に届けるために、今日来た」
「その前に、佳代さんに話すために来ました」
佳代の目が透へ戻った。
「母には聞かせません」
返事は早かった。
「理由は前に話したとおりです。兄が亡くなったことも、まだ言ってません。母はいま、実が病院にいると思ってます」
「はい」
「先生からも、なるべく負担をかけないように言われてます。そこへ兄の最後の言葉なんか聞かせて、もし何かあったら」
佳代はそこで口を閉じた。
テーブルの水には、まだほとんど手がついていない。
「だから断ります」
「わかりました」
佳代の眉が寄った。
「それで帰るんですか」
「まだです」
透は膝の上に置いていた手をほどいた。
「俺は庭仕事を頼まれています。事情を黙ったまま竹岡さんの家へ行けば、ハツさんと会うことはできます」
「会ったら?」
「言葉が出ます。俺が止めようとしても止まりません」
「じゃあ、あなたが勝手に庭へ行ったら」
「届けられます」
佳代は水のグラスから手を離した。
「でも、それはしません」
「どうしてですか」
「佳代さんが止めていると知ってるからです」
透はそれ以上、理由を足さなかった。
佳代は窓の外へ目を向けたあと、楓を見た。楓は口を挟まず、目の前のコーヒーにも触れていない。
「それで、わたしに決めろってことですか」
「はい」
「届けたら母に何かあるかもしれない。断ったら、あなたの中でその言葉が駄目になる。そういう話を聞かされたうえで?」
「そうなります」
「卑怯ですね」
「はい」
即答すると、佳代が顔をしかめた。
「そこ、否定しないんですね」
「否定できないので」
店の奥で皿を重ねる音がした。ラジオでは、午後の天気を読み上げている。
佳代は窓の外を見たまま訊いた。
「兄は、何て言ったんですか」
透は返事をしなかった。
「それを知らないで決めろって言われても、無理です」
「今ここで俺が言うのは、実さんの声じゃありません。俺が聞いた内容を、俺の声で言うだけです」
「それでいいです。教えてください」
透は水を一口飲んだ。
「かあちゃん、こたつ、出しといて」
佳代は動かなかった。
やがて、口元がわずかに動いた。
「……こたつ」
「はい」
「それだけ?」
「それだけです」
佳代は椅子の背へ身体を預けた。
「毎年、出しに来てたんです」
透は黙って続きを待った。
「母が一人で出すと腰を痛めるからって。秋になると兄が来て、こたつ出して、布団を干して、それだけやって帰るんです」
佳代の声は普段と変わらなかった。
「わたしがやるって何回も言ったんですよ。近くに住んでるんやからって。でも、あの人、自分がやるって」
グラスを持ち上げたが、佳代は飲まずに戻した。
「今年も来るつもりやったんですね」
透は答えなかった。
佳代は片手で目元を押さえ、そのままテーブルのおしぼりを取った。
楓も何も言わなかった。
※
佳代が顔を上げたころには、グラスの氷がずいぶん小さくなっていた。
「すみません」
「いえ」
「母の前じゃ、こういうことできないので」
使ったおしぼりを袋の上へ置き、佳代は透を見る。
「榊さん。もう一つだけ教えてください。わたしが断ったら、その言葉はどうなるんですか」
「七日を過ぎたら、もう届けられません。俺の中に残ります」
「ずっと?」
「はい」
「あなたは?」
そこだけ伏せれば、佳代に決めてもらうという話そのものがおかしくなる。
「俺が使っていた言葉が、一つ出なくなります。何がなくなるかはわかりません」
佳代は少し間を置いた。
「それでも、わたしに決めさせるんですか」
「俺が決めていいことじゃないと思ったので」
「でも、断ったらあなたに残る」
「そうです」
佳代は何か言いかけたが、声にはしなかった。
※
「氷見さんは、どう思いますか」
佳代が楓へ向き直った。
「役場の人としてじゃなくて」
楓はコーヒーカップの取っ手へ指をかけた。
「私は昨日と変わってません。いまは届けないほうがいいと思っています」
佳代が頷く。
「母のために?」
「それもあります」
楓はカップから手を離した。
「私も、父に訊けないことがあるので」
透は楓を見た。
楓はそちらを向かなかった。
「訊いたら、それまでと同じではいられなくなるかもしれない。だから、訊かないままにしてることがあります」
「そうですか」
「ただ、佳代さんと私が同じかはわかりません」
そこで楓は口を閉じた。
佳代も、何を訊けずにいるのかまでは尋ねなかった。
※
会計票がテーブルへ置かれるころ、佳代は鞄を膝へ引き寄せた。
「一日ください」
「わかりました」
「明日の夜までに連絡します。それでも間に合いますか」
透は頭の中で日を確認した。
「間に合います」
佳代は立ち上がったあと、もう一度透を見る。
「もし断ったら、庭の続きは期限が過ぎてから来てください」
「はい」
「母、待ってますから。庭のことは庭のことです」
佳代は会計票を持ち、レジへ向かった。
※
店を出ると、楓が駐車場で足を止めた。
「父のことは訊かないでください」
「訊かないよ」
「本当に?」
「楓が言わないって決めてるなら、俺からは訊かない」
楓は透を一度見て、自分の車へ向かった。
「それならいいです」
ドアを開ける前に振り返る。
「透さん」
「何?」
「佳代さんがどっちを選んでも、私は昨日の意見を変えませんから」
「わかった」
楓は車へ乗った。
※
便利堂へ戻る途中、透は常光寺の前を通った。
寺の裏には両親の墓がある。
十五年前の葬儀には、町の人が大勢来たと後から聞いた。透自身が覚えているのは、集会所の畳と、誰かが何度も湯呑みを運んでいたことくらいだった。
祭壇の前で誰と話したのかは出てこない。
自分が泣いたかどうかも、覚えていなかった。
透は寺へ曲がる道を通り過ぎ、そのまま便利堂へ戻った。




