第18話 知らないでいる権利
役場の裏の自販機の前で、楓は缶に手をつけないまま聞いていた。
全部話した。庭で実が倒れたこと、預かった言葉、佳代が母に伝えていないこと。話し終えるまで、楓は一度も口を挟まなかった。
最後まで聞いてから、楓は言った。
「わたしは、届けないほうがいいと思います」
思っていたより、はっきりした言い方だった。
「妹さんの判断は、間違ってないです。お医者さんもそう言ってる。八十一歳で心臓が悪くて、あと何か月かの人に、息子さんが死んだと知らせる。それは」
楓はそこで一度、言葉を選んだ。
「知らせるほうが正しいとは、わたしには思えません」
「知る権利がある、とは思いませんか」
「思います。でも」
楓は缶を両手で包んだ。
「知る権利は、知らないでいる権利でもあるはずです。知りたくない人に知らせるのは、権利じゃなくて、押しつけじゃないですか」
透は答えなかった。
言い返せなかったのではない。楓の言っていることは、透が三日間ずっと自分に言い聞かせてきたことと、ほとんど同じだったからだ。
※
「氷見さん。ひとつだけ、わかってほしいことがあります」
「はい」
「俺には、届けないという選択肢がありません」
楓の眉が動いた。
「宛先の前に立てば、口が勝手に開きます。俺の意思は関係ない。だから俺に選べるのは、行くか、行かないかだけです」
「行かなければいいじゃないですか」
「行かなければ、七日目に言葉が腐ります」
自販機のモーターが低く鳴った。
「腐ったら、俺の中に居座って、二度と出ません。代わりに、俺の言葉がひとつ消えます」
楓の手から力が抜けるのが見えた。缶の表面に、指の跡が白く残っている。
「……それ」
「はい」
「それ、ずるいです」
※
楓は自販機の横のベンチに座った。透も座った。
「ずるいというのは」
「榊さんじゃなくて、その仕組みがです」
楓は前を向いたまま言った。
「わたしはさっきまで、届けるか届けないかの話をしてました。届けないほうがいいと思ってた。でも、届けないと榊さんが減るんですよね」
「減る、というと」
「言葉がひとつなくなるって、そういうことでしょう」
透は自分の喉に手を当てた。
「そうかもしれません」
「じゃあわたしは、竹岡さんのお母さんを守るために、榊さんを削れって言ってることになります」
楓は膝の上で手を組んだ。
「言えません、そんなこと」
しばらく、二人とも黙っていた。
役場の裏を、職員が通っていった。楓に会釈をして、透の顔をちらりと見て、行ってしまった。
「氷見さん」
「はい」
「意見を変えなくていいです」
楓が透のほうを向いた。
「俺は届けるほうへ行きます。氷見さんは届けないほうがいいと思ってる。それでいいです」
「よくないです」
「よくないですか」
「よくないですけど」
楓は少し笑った。笑ったというより、笑おうとして失敗した顔だった。
「……わたしが正しいって言ってもらえないのは、初めてかもしれません」
「え」
「役場だと、だいたい、こっちが規則を出したら終わりなので」
※
その夜、梶が来た。
いつもどおり戸を叩かずに入ってきて、透の家の湯呑みを勝手に持っている。千鶴が麦茶を注いだ。
「梶さん、こういうときって、どうしてたんですか」
訊いたのは千鶴だった。透が話したことを、この子はもう全部把握している。
「こういうときいうんは」
「届けたら相手が壊れるかもしれないとき」
梶は湯呑みを持ったまま、しばらく動かなかった。
「……爺さんはな」
「はい」
「四十年やって、一遍だけしくじった」
透は顔を上げた。
初めて聞く話だった。持越の件は聞いている。三十二年前の、宛先が死んでいた一件だ。だがそれは「しくじり」とは言われなかった。
「一遍だけ、というのは」
「一遍だけや。四十年で」
「持越とは、違う話ですか」
梶は答えなかった。
湯呑みを畳に置いて、音を立てた。
「わしにも、わからんのや」
「わからない」
「爺さんのしくじりがな、届けられんかったことなんか、届けてしもたことなんか。そこがわからん」
千鶴が麦茶のグラスを持ったまま、動きを止めた。
「あの人、それだけは最後まで言わんかった。わしが訊いても、そこだけは」
※
梶が帰ってから、透は事務所の畳に座っていた。
千鶴が向かいに座って、膝を抱えている。
「透さん、明日どうするんですか」
「行く」
「入れるんですか。門のとこで止まってたって」
「止まった」
透は自分の膝を見た。
「でも、忍び込むのはやめる」
「え」
「庭の続きの仕事がある。行けば、ハツさんは縁側に出てくる。それで終わりだ。届く」
千鶴が身を乗り出した。
「それって、だまし討ちじゃ」
「だまし討ちだ」
透は言った。
「だから、それはやらない」
※
祖父は、届ける前に何度も家に通ったという。世間話をしに来る顔をして、二日も三日も待った。
受け取れる形にしておくために。
立花トキが言っていた。届いたら終わりではない。届いたあと、受け取った者がそれを持って生きるのだ、と。
だとしたら、いま自分がやるべきことは、こっそり縁側の前に立つことではない。
「佳代さんに、話す」
「話すって、何をですか」
「全部だ。俺が何を預かっているか。届けなければどうなるか。届ければどうなるか」
「反対されますよ、絶対」
「されるだろうな」
透は帳面を閉じた。
「そのうえで、決めてもらう。ハツさんに聞かせるかどうかを」
千鶴はしばらく黙っていた。
「それ、佳代さんに全部背負わせることになりませんか」
「なる」
「なるんかい」
「でも、俺が黙って届けたら、佳代さんは何も選べない」
※
翌朝、透は役場に電話をかけた。
楓はすぐに出た。
「昨日の話ですけど」
『はい』
「忍び込んで届けるのは、やめます」
電話の向こうで、何かを置く音がした。
「妹さんに全部話して、決めてもらいます。届けるかどうかを、俺じゃなくて、あの人に決めてもらう」
しばらく間があった。
『……それ、榊さんが損をしませんか』
「損はします。断られたら、言葉は腐ります」
『じゃあ』
「でも、氷見さんの言ってたことは、それしか通し方がないので」
電話の向こうが静かになった。
『榊さん』
「はい」
『わたし、その場に立ち会ってもいいですか』
透は受話器を持ち直した。
『役場の人間としてじゃなくて、勝手に休みを取って行きます。妹さんが、届けないと決めたときに、榊さんの隣に誰もいないのは、なんか、嫌なので』
「……氷見さん」
『あと』
楓の声が少しだけ低くなった。
『わたしはまだ、届けないほうがいいと思ってます。それは変えません』
「はい」
『変えませんけど、榊さんのやり方は、いいと思います』
通話が切れてからも、透はしばらく受話器を持っていた。




