第17話 入れない家
竹岡の家の門の前に、透は二十分立っていた。
インターホンは押していない。押せば佳代が出る。出れば話をすることになる。話をすれば、たぶん同じことを言われる。
喉の奥が、さっきから動いている。
この家の中に、宛先がいる。門の外にいるだけで、それがわかった。舌の付け根がわずかに持ち上がって、何かがそこまで上がってくる。門を入って、玄関を開けて、あの人の前に立てば、透の意思とは関係なく口が開く。
だから入れなかった。
十月の朝は冷える。息が白くはならないが、指先が乾いた。庭のほうから、金木犀の匂いがした。
透は門から離れた。
軽トラに戻って、運転席に座って、しばらくハンドルを見ていた。
残り四日。
※
三日前のことだった。
竹岡の家の庭木の剪定は、毎年秋に頼まれる仕事だ。松と、椿と、生垣の山茶花。半日仕事で、二日に分けてやる。
その日、透は脚立の上で松を触っていた。
母屋の縁側に、竹岡ハツが座っていた。八十一歳。半年前に心臓を悪くしてから、日中は縁側で日を浴びている時間が長いという。
「榊さん、上のほう、切りすぎんといてね」
「わかってます」
「去年、切りすぎたから」
「切ってません」
「切ったわ」
ハツは笑った。笑うと、目のまわりの皺が全部動く人だった。
※
十時ごろ、車が入ってきた。
降りてきたのは、五十くらいの男だった。県外ナンバーの、少し埃をかぶったセダン。男は後部座席から紙袋を出して、縁側のほうへ歩いていった。
「かあちゃん、これ、頼まれとったやつ」
「あら、実。今日来るなんて言うとらんかったやろ」
「言うたら、掃除するやろ。しんどいのに」
竹岡実だった。透も顔は知っている。この町の出身で、二十年以上前に県外へ出て、盆と正月に帰ってくる。
実は透に気づいて、脚立の下まで来た。
「榊さんとこの。悪いね、毎年」
「いえ」
「かあちゃんが、あんたやないと嫌や言うもんで」
「そんなこと言うてません」
縁側からハツの声が飛んできた。実が笑った。
※
実が倒れたのは、その二十分後だった。
紙袋を車に取りに戻って、庭を横切っている途中だった。
足が止まった。
上体が前に折れて、膝が崩れた。音は小さかった。土に何かが置かれたくらいの音だ。
透は脚立から落ちた。降りるつもりだったが、足が段を踏み外した。膝を打った。痛みは感じない。
「竹岡さん」
実は仰向けになっていた。目は開いている。だが焦点が合っていない。呼吸が、浅く速い。
透はスマートフォンを出して、一一九番を押した。押しながら、縁側のほうを見た。
ハツが立ち上がろうとしていた。
「動かんでください」
透は叫んだ。生まれて初めてに近い大声だった。
※
救急車は十四分で来た。
だが、間に合う類のものではなかった。透にはそれが、来る前からわかっていた。
実の呼吸が変わったのは、通報から六分ほど経ったころだ。
喉が大きく鳴って、顎が持ち上がった。あえぐような吸い方が二度続いて、そのあいだが空いた。透は実の手首を探したが、脈は指の下になかった。
顔から色が引いていく。唇のまわりが灰色になった。
透の内側に、あの静けさが立った。
やめてくれ、と思った。
二度目だ。二か月前の県道でも同じことを思った。頼まれてもいない。この人は言伝を頼むつもりで倒れたわけではない。
それでも、器が空いた。
実の唇が動いた。
声は出ていない。それでも届いた。
「かあちゃん」
実の声だ。五十二歳の声ではない。二十歳そこそこの、家の中から母を呼ぶときの声だった。
「かあちゃん、こたつ、出しといて」
透は口を閉じた。
閉じたのに、入ってくる。喉の途中で一度つかえて、それから落ちた。軽い。他のどれよりも軽かった。
実の顎が、もう一度だけ動いた。
それきりだった。半分開いた口に、庭の土埃が入っていく。透はそれを手で払おうとして、途中でやめた。触ってはいけない気がした。
サイレンが近づいてくる。
縁側で、ハツが両手で口を押さえて立っていた。震えているのが、この距離でもわかった。
※
その日の夕方、妹の佳代が県道沿いの喫茶店に透を呼び出した。
四十九歳。町に残って、母の世話をしている。実の三つ下だと聞いた。
「榊さん。庭で、兄を見ていましたよね」
「はい」
「兄は、何か言いましたか」
透は答えなかった。
答えられなかったのではない。答えるべきかどうかを、まだ決めていなかった。
佳代はコーヒーに手をつけずに続けた。
「母には、伝えていません」
透は顔を上げた。
「あの日、母は庭で兄が倒れるのを見ています。けど、そのあと母も具合が悪くなって、病院で薬をもらって、そのまま寝ていました。目が覚めたときには、兄は運ばれたあとで」
「……ハツさんは」
「兄は入院した、と言ってあります」
佳代の指がカップの取っ手にかかって、持ち上げないまま止まった。
「先生から言われてるんです。母の心臓は、強い衝撃に耐えられない。次に何かあったら、その次はない、と」
「葬儀は」
「済ませました。母には言っていません」
佳代は透を見た。目が赤かった。泣いた跡ではなく、眠っていない目だった。
「ひどいと思いますか」
「思いません」
「思ってもいいんです。わたしも、ひどいと思ってます」
佳代はそこで初めてカップを持ち上げて、一口飲んだ。
「でも、あと何か月かなんです、母は。だったら、知らないままのほうがいい」
透は膝の上で手を握った。
喉の奥に、実の声が据わっている。かあちゃん、こたつ、出しといて。
こたつを出す季節に、実は帰ってくるつもりだった。
「榊さん」
佳代は言った。
「庭の続き、来週やってもらえますか。母が、あなたが来ると楽しみにしてるので」
※
便利堂に戻って、透は控え帳を開いた。
白紙の頁を見た。祖父の代の記録が終わったところから先は、まだ何も書いていない。
届ける相手が、届けられることを望んでいない。
そういう案件が四十年分の記録の中にあるのかどうか、透にはわからなかった。祖父なら知っていたはずだ。訊けないことが、こんなに不便だとは思わなかった。




