第16話 持っとけ
寺の予定表には、電話番号が控えてあった。
「折り返すことがありますからね。名前は名乗られませんでしたけど、番号だけは訊きました」
白木はそう言って、ノートの端を指した。市外局番が臥雲町のものではない。
透はその番号にかけた。
呼び出し音がしばらく続いてから、女性が出た。
『はい、春日苑でございます』
※
春日苑は、隣県の山あいにある高齢者施設だった。
電話口の職員は、個人情報は答えられないと言った。当然だった。だが透が早瀬昭三の名前を出したとき、相手が一瞬だけ黙った。
その一瞬が、答えになった。
「行くしかないな」
電話を切って、透は千鶴に言った。
「どこですか」
「隣県だ。車で二時間半」
「今から?」
「明日が七日目だ」
千鶴は事務所の壁の地図を見た。この町の地図しか貼っていない。役に立たなかった。
※
航が代車を出してくれた。
「お前の軽トラ、高速で二時間半は死ぬぞ。荷台に何も積んでないのに揺れるんだから」
「借りる」
「ガソリンは満タンで返せ」
航はキーを放って寄越した。
「あと、寝ろよ。事故ったら笑えねえ」
※
施設に着いたのは、午後二時過ぎだった。
山の斜面を削った敷地に、平屋が三棟並んでいる。玄関の前に花壇があって、日陰にベンチが置いてあった。
受付で、透は正直に言った。
「便利屋です。臥雲町から来ました。早瀬昭三さんに、お伝えすることがあって」
職員は困った顔をした。ここでも同じ顔だ。
「ご親族の方ですか」
「違います」
「そうしますと、面会は」
そのとき、廊下の奥から声がした。
「臥雲町?」
車椅子の老人が、こちらを見ていた。
早瀬昭三は八十六歳だった。
痩せているが、背筋は椅子の上でまっすぐだった。目に力がある。手の甲に、古い火傷の跡がいくつも散っていた。鉄を扱ってきた人の手だ。
中庭のベンチで話すことになった。職員が少し離れたところに立っている。
「臥雲町から、わざわざ」
「はい」
「何年ぶりやろな。あの町の名前を人の口から聞くんは」
早瀬は膝の上で手を組んだ。
「あんた、榊便利堂の」
「知ってるんですか」
「先代を知っとる。うちの工場の前を、いつも自転車で通っとった」
透は姿勢を正した。
「早瀬さん。ひとつ、届け物があります」
「届け物」
「言伝です」
早瀬の目が動いた。老人特有の、白く濁りかけた目だ。だがその奥で、何かが素早く働いたのが透にはわかった。
「……あんた、あの人の孫か」
「はい」
「そうか」
早瀬は中庭の芝生を見た。夏の芝は青くて、水を撒いた跡が濃く残っている。
「聞きます」
透は口を開いた。
喉の奥のものが、勝手に動いた。
「早瀬さんに」
自分の喉から、知らない男の声が出た。県道で聞いたときより若い。仕事の途中で誰かを呼び止めるときの、張った声だった。
「早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ」
出ていった。十五年ぶん抱えていたものにしては、あっけないほど静かに離れた。
早瀬は動かなかった。
しばらくして、組んだ手の甲を、もう片方の手でゆっくり撫でた。火傷の跡の上を、何度も。
「……北野やな」
「北野さん」
「北野修一。うちにおった男や」
早瀬は顔を上げなかった。
「あいつ、死んだんか」
「六日前に。県道で、車の事故です」
「そうか」
早瀬はそれだけ言った。泣かなかった。八十六年生きた人間の、驚かない受け止め方だった。
「鍵はな」
早瀬が言った。
「港の倉庫の鍵や。三番の」
「使えない鍵だと聞きました」
「使えん。十五年前の水で錠がやられて、みんな取っ替えた」
早瀬は空を見た。山の上に、入道雲が出ている。
「うちが工場を畳んだんは、その年や。造船所が仕事を止めて、うちみたいな下請けは、あっという間やった。従業員は七人おった。全員に、頭下げて辞めてもろた」
「北野さんも」
「あいつは最後まで残った。倉庫の片付けと、機械の売り払いと、そういうんを全部やってから出ていった」
早瀬の指が止まった。
「出ていく日にな、あいつが鍵を返しに来た。倉庫の鍵や。もう倉庫も引き払うんやから、返すのが当たり前や」
「受け取らなかったんですか」
「受け取らんかった」
早瀬は初めて透のほうを見た。
「持っとけ、と言うた。またいつか使う、と」
中庭に、蝉の声が降っていた。
「そんなもん、あるわけない。七十一や。金もない。工場の土地も売ってしもた。またいつか使うことなんぞ、あるわけがなかった」
早瀬の声は淡々としていた。
「けどな、あの日、あいつの顔を見たら、返すなとしか言えんかった。あいつ、二十歳からうちにおったんや。親がおらんかったから、うちの二階に住まわせて」
「息子さんみたいな」
「みたいなもんやない。息子や」
早瀬は言い切って、それから少し首を振った。
「わしはそう思うとった。あいつは、最後まで早瀬さんやったけどな」
透は膝の上で手を握った。
「北野さんは、その鍵を十五年持っていました。車の中に」
「十五年」
「はい」
早瀬は口を開けて、閉じた。それから、両手で顔を覆った。
声は出さなかった。肩も震えなかった。ただ、手のひらで顔を押さえたまま、長いこと動かなかった。
職員がこちらを見た。透は小さく首を振った。
「わしが受け取らんかったから」
顔から手を離して、早瀬は言った。
「あいつは十五年、持ったままやったんやな」
透は答えられなかった。
答えられないというより、その言葉が自分の内側に落ちてきて、うまく処理できなかった。
受け取ってもらえなかったものを、人は持ち続ける。
預かった言葉と同じだった。届かなければ腐って、それでも出ていかない。
「早瀬さん」
「うん」
「北野さんは、臥雲町のお墓を畳もうとしていました」
早瀬の眉が動いた。
「墓」
「早瀬家のお墓です。位牌を三つ、車に積んでいました。寺には先月、閉眼供養の問い合わせが入っています」
「……あいつ、そんなことを」
「早瀬さんが生きているうちに片付けたい、と言っていたそうです」
早瀬はしばらく黙っていた。
「わしは頼んどらん」
「はい」
「頼んどらんのに、あいつは」
早瀬は膝の上の手を見た。
「鍵を返しに来たんやな。今度こそ」
※
帰りの高速で、透は一度サービスエリアに寄った。
自販機の前のベンチに座って、缶コーヒーを開けて、飲まずに置いた。
喉は空だった。案件が終わったときの、あの軽さがある。
だが今回は、軽くなった分だけ、別のものが残った。
北野修一は、預かり屋を頼んでいない。事故の直前まで、自分が死ぬことも知らなかったはずだ。
それでも最後に、十五年ぶんの答えを口にした。誰かに聞かれるとも思わずに言って、そこにたまたま、運ぶ人間がいた。
※
臥雲町の祭りは、北野修一の一件で走り回っているあいだに終わっていた。
毎年八月十五日に、高台の神社で行われる。太鼓が出て、露店が七つか八つ並んで、それだけの祭りだ。町の人間はたいてい顔を出す。
透は行かない。
十五年前から、その日は仕事を入れないようにしている。理由を訊かれたことはない。この町でその日について訊く人間はいない。
今年は、隣県の施設から帰る高速の上でその時刻を過ぎた。気づいたのは翌日で、気づいたときには、もう終わっていた。
※
閉眼供養は、九月の頭に行われた。
早瀬昭三は施設から出られなかった。代わりに、電話を繋いだ。白木がスマートフォンを本堂の畳に置いて、スピーカーにして経を読んだ。
位牌は警察から早瀬に返され、早瀬が常光寺に預けた。過去帳に移して、お焚き上げにする。
北野修一の身元は、透が警察に早瀬の連絡先を伝えたことで確認された。北野にも身寄りはなかった。骨は、早瀬が引き取ると言った。
「うちの墓を畳んだら、あいつはどこに入るんですか」
白木にそう訊いたのは、千鶴だった。
「うちで預かります」
白木は当たり前のように答えた。
「無縁墓いうのがありますからね。そこに入ってもらいます」
「無縁って、なんか」
「言葉が悪いですね。けど、誰も来んくなった仏さんを、うちが忘れんために置いとく場所です」
※
九月に入って、朝の空気が変わった。
草の伸びが止まって、草むしりの依頼が減った。代わりに、網戸を外す仕事と、灯油タンクの点検の予約が入り始める。この町の季節は、依頼の中身で変わる。
棚の下の新聞の束に、千鶴が箒の柄を引っかけた。紐が緩んで、いちばん上の一枚がずれた。
「これ、捨てないんですか」
「使う」
「何に」
透は答えなかった。千鶴は紐を結び直して、束を奥へ押し込んだ。




