3話 読めない相手
園長が倒れて半日。
動物保護施設の営業があるため、命に別状はないことを聞いて一度病院を出た。
念のため、一日経過観察するらしい。
営業終了後は、すぐに病院へ向かった。
病室を開けると園長は、起きて窓の外を見ていた。
「おっ、来たな。帰ろうか」
園長は、待ち侘びていた。
「検査どうだった?」
「様子見だ」
「そう」
今まで元気でうるさい園長しか見たことがなかった。
「ノエル。施設を閉じようと思う」
ノエルは反射で答えた。
「ダメ」
いつも園長は、頑固親父のようだ。
だが今回は何を言ってきても譲れない。
園長は少し呆れながら、急に優しい口調で言った。
「ノエル、何歳になった?」
「今年で二十四かな」
園長とは半分以上一緒に生きている。
「ノエル、お前はまだ若い。これからやりたいことができなくなってしまうような借金をしなくてもいいんだ」
ノエルは園長をまっすぐ見ながら言った。
「私は、まだやりたいことが分からない。でもそれは、好きな場所を手放す理由にはならない。園長には悪いけど、私は我儘だよ?人情も何にもなしで、私が決めたから。手放す時も私が決める」
「頑固だな。誰に似たんだか」
真剣な顔を見合わせた後、思わず笑ってしまった。
翌日、先日突っかかってきた部下が契約書を届けに来た。
その場で署名をして、返す。
「お前、わかってんだろうな。こっちで働くってことは、俺は先輩だからな」
ノエルはだるそうなのをバレないように端的に返事をした。
「よろしくお願いします」
それを聞いて満足そうに帰っていった。
(なんだか子どもっぽい人だな)
地図に書かれた場所に向かうと、立派なコンクリート造りのオフィスがあった。警備は厳重。
足音がやけに反響する。
建物匂いが鼻につき、温度のない空気が肺に入ってくる。
書かれた通りの場所で待っていると、奥から足音が響く。見たことある側近だった。
「ついて来てください」
なんの説明もないまま、違うフロアに着く。
そこにはこの間の貫禄のあるボス。高そうな和装を着てソファに座っている。そして部下に指で指示を出す。
「トウタを連れてこい」
しばらくすると、トウタという人が現れた。
長身で切長の目、痩せているがヒョロヒョロではない。一見、軽薄そうな男。
「悪いな、訓練中。
こいつの相手をしてくんねぇか」
「いいっすけど、誰っすか?」
側近が答える。
「新人だ」
その後、トウタの耳元で何かを囁く。
それを聞いたトウタは、納得しながら不気味に口角を上げる。
部下が全員離れた後、トウタはノエルの前に立って言い放つ。
「悪りぃな、手加減すんなって言われてんだ」
ノエルは無視して集中する。何も説明はなかったけど、多分この人を倒せば勝ちだ。
「始め!」
開始の声が響いた瞬間、
ノエルは一気に床を蹴り上げる。
相手の懐に入り、
ノエルは一瞬だけ、勝ちを確信した。
踏み込んだ勢いのまま、拳を鳩尾へ。
当たる、と思った。
だが、
次の瞬間には視界が歪む。
肘を絡め取られ、体勢が崩された。
床が、やけに近い。
「ーーっ」
背中から叩きつけられ、肺の空気が一気に抜ける。
息を吸おうとしても、喉がひゅっと鳴るだけで、うまく入らない。
「近づくの、早すぎ」
トウタの声は、頭の上から降ってきた。
気配が読めない。
さっきまで正面にいたはずなのに、もう位置が分からない。
ノエルは転がるように距離を取った。
床に手をつき、立ち上がる。
速い。
いや、速いというより、なんだこの感じ。
トウタは、数歩離れた位置で立っていた。
両手をポケットに突っ込んだまま、余裕そうにこちらを眺めている。
「おいおい、もう引くのかよ」
その目が、妙に楽しそうで、腹が立つ。
ノエルは構え直す。
呼吸を整え、視線を逸らさない。
踏み込む。
今度はフェイントを混ぜ、死角に回り込む。
つもりだった、
……のに。
気づけば、視界の端にトウタがいる。
いや、さっきまでいなかった場所に“いる”。
「……は?」
理解する前に、肩に衝撃が走る。
体が宙を舞い、壁に叩きつけられた。
鈍い音。
腕に痺れが残る。
「悪くねぇ動き。
でも、予想通りすぎ」
トウタは、ノエルの動きをなぞるように歩いてくる。
距離はまだあるのに、なぜか逃げ場がない気がした。
見られてる。
動く前から、読まれてる。
ノエルは後ずさり、間合いを取る。
視界の端が、じわりと滲む。
次の瞬間、
床と壁の“境目”が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
……違う。
揺れたんじゃない。
何だ。
ノエル自身は気づかない。
だが、踏み出した足の位置が、ほんの数十センチ、ずれる。
「……おい」
トウタの声のトーンが、わずかに変わった。
ノエルは息を整えながら睨み返す。
「自覚なしかよ」
トウタは舌打ちして、けれど笑った。
さっきまでの軽い余裕とは違う、
“獲物を見つけた”目だ。
「いいね。
そういうの、めちゃくちゃ好き」
ノエルが再び踏み込もうとした、その時。
「そこまでだ」
側近の声が、冷たく響いた。
トウタは露骨に顔をしかめる。
「はぁ?
今から面白くなるとこだろ」
「上の命令です」
「ちっ……」
トウタはノエルに背を向けながら、ぶつぶつと文句を言う。
「せっかく“当たり”引いたのによ。
続きはまたな、新人」
振り返り、にやりと笑う。
トウタが去った後、
ボスはソファに座ったまま、満足そうに目を細める。
「やっぱりな」
その一言だけを残し、
ゆっくりと立ち上がり、部屋を出ていった。
トウタが去ったあと、側近に促されて別室へ通された。移動中、ノエルはどうやったら勝てるかを考えていた。
コンクリートの廊下を進むと、今度は妙に狭い小部屋だった。
簡素な机と椅子。壁には何もない。
中にいたのは、事務員のような女人。
黒髪を後ろでまとめ、感情の起伏が読み取れない顔をしている。
「どうぞ、おかけください」
言われるまま椅子に腰掛ける。
「これから、あなたの任務の流れを説明します」
淡々とした声で、仕事内容と最低限の注意事項だけが告げられる。
詳しい理由も、全体像も語られない。
終わると、女はノエルの腕を見た。
「腕を出してください」
「……は?」
戸惑いながらも、指示通り袖をまくる。
次の瞬間だった。
肌に、焼けつくような痛みが走る。
「ーーっ!!」
反射的に腕を引こうとするが、女の手が離れない。
視界が白くなるほどの激痛。
歯を食いしばって耐えていると、ようやく痛みが引いた。腕には、見慣れない紋様のような印が刻まれている。
赤黒く、じんわりと熱を持っていた。
「……何、これ」
「印です」
あまりにも当然のように言われる。
「普通に過ごしていれば、そのうち消えます」
「それだけ?」
「それだけです」
納得できるわけがない。
女はそれ以上何も答えず、引き出しから小さな端末を取り出した。
黒く、手のひらに収まる程度の大きさで、腕時計のような形をしている。
「これを」
小石のようなものが腕時計のような形に変わり、腕に付く。
「基本的には、通知が来たら従ってください」
「行けば分かります」
あまりにもアバウトすぎる説明だった。
「質問は?」
そう言われても、聞きたいことだらけなのに、
どれも答えてもらえない気がして口をつぐんだ。
なるようになる。
「以上です」
女はそれだけ言うと、もうノエルに興味がないように視線を端末へ戻した。
部屋を出る。
廊下に一歩踏み出した、その瞬間。
ぶる、と端末が震えた。
ノエルは足を止め、画面を見る。
そこに表示されたのは、
簡素すぎる指示文だけだった。
《対象地点へ移動》
理由も書かれていない。
さっそくか。
ノエルは小さく息を吐き、
指示された方向へ歩き出した。




