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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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第22話 静かな完成形 ――藤原葵



鳳雅シンフォニア・ドームの照明が落ち、

一筋のスポットライトがステージ中央を照らした。


そこに立つのは、近畿代表――藤原葵。


黒いドレスが、光の中で静かに揺れる。


観客席のざわめきはすぐに消え、

ホールにはわずかな空調の音だけが残った。



---


■ 一歩も動かない舞台


藤原葵は、すぐには歌わなかった。


目を閉じ、

わずかに呼吸を整える。


その姿は、緊張しているようには見えない。


むしろ――


舞台を自分のものにするまで待っているようだった。


審査員席で風間隼が小さく呟く。


「……堂々としてるな」


隣の審査員が頷く。


「ええ。舞台経験があるのでしょうね」


風間はメモ帳を開く。


(この静けさを作れるのは、簡単じゃない)



---


■ 歌の始まり


やがて葵の唇が開いた。


最初の一音は、驚くほど静かだった。


だが――


音はホールの隅まで届く。


透明でも、鋭くもない。


落ち着いた声。


それなのに、不思議と耳を引き寄せる。


観客席の誰もが、

無意識に呼吸を合わせていた。



---


■ 舞台袖


舞台袖で、詩が小さく息を呑んだ。


「……上手い」


玲は静かに見つめている。


紗江も思わず言った。


「すごい……安定してる」


葵の歌には、ほとんど揺れがない。


感情を爆発させるタイプではない。


だが――


崩れない。


どんな旋律でも、

音程もリズムも、

まるで計算されたように正確だった。


詩が呟く。


「なんか……安心して聴ける」


玲が小さく答える。


「うん」


そして、少しだけ言葉を足した。


「でも、それだけじゃない」



---


■ 完成形


歌は中盤へ入る。


葵の声は、少しずつ広がり始めた。


大きくするわけではない。


だが――


フレーズの終わりに、

わずかな感情の揺れが混ざる。


その瞬間、観客席の空気が変わる。


紗江が思わず呟いた。


「……あ」


詩も同じことを感じていた。


完璧に整っているのに、冷たくない。


むしろ、静かな熱がある。


玲の瞳が細くなる。


(この人……)



---


■ 審査員席


風間隼のペンが止まった。


(なるほど)


彼は心の中で呟く。


技術は高い。


だが、それ以上に――


舞台を知っている。


どこで声を強め、

どこで余韻を残すか。


観客の集中が途切れる前に、

必ず次の音を置いてくる。


(これは……)


風間はメモに書いた。


「完成度」


そして、少し考えてからもう一行。


「完成しているのに、終わっていない」



---


■ 最後の音


曲はクライマックスへ向かう。


葵は動かない。


腕も広げない。


ただ、まっすぐ立って歌う。


それでも――


ホール全体が彼女の声に包まれていく。


最後の音が、長く伸びる。


そして静かに消えた。


一瞬の沈黙。


次の瞬間――


大きな拍手がドームに広がった。



---


■ 舞台袖の沈黙


袖で、詩がぽつりと言う。


「……すごかった」


紗江も頷く。


「うん」


二人はしばらく言葉が出なかった。


玲は舞台を見つめたまま、静かに言う。


「強いね」


詩が振り向く。


「玲ちゃん、どう思った?」


玲は少し考えた。


そして答える。


「完成形」


その言葉は、賞賛でもあり、

同時に――


宣言でもあった。



---


■ 次の波


ステージでは、藤原葵が静かに一礼していた。


拍手はまだ続いている。


審査員席で風間隼がノートを閉じた。


(今年は……)


彼は静かに思う。


例年のオーディションとは違う。


完成された者。


揺れながら進む者。


そして――


まだ何かを隠している者。


風間の視線が、舞台袖の方へ向く。


そこには、

次の出番を待つ参加者たち。


この大会はまだ終わらない。


むしろ――


ここからが本当の勝負だった。



---


(第22話・了 → 第23話へ続く)

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