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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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20/27

第20話 紗江の声 ――透明な音が揺れる理由


伴奏の最初の音が、静かにホールへ広がる。


その瞬間、

田村紗江の胸の奥で、小さな震えが弾けた。


(……始まった)


鳳雅シンフォニア・ドームの広い空間。

高い天井。

遠くまで続く観客席。


昨日も見たはずの景色なのに、今日はまるで違う場所のようだった。



---


■ 最初の一音


紗江はゆっくり息を吸う。


そして――歌い出す。


最初の音は、細く、透明だった。


まるで朝のガラスに落ちる水滴のように、 静かにホールへ広がっていく。


審査員席で、風間隼がペンを動かした。


(……やはり、この声か)


紗江の声には、玲のような完成された強さも、 詩のような感情の爆発もない。


だが――


透き通る“空白”があった。


その空白が、聴く者の心に何かを残す。



---


■ 震える音


二フレーズ目。


紗江の声がわずかに揺れた。


ほんの一瞬、音程がわずかに揺らぐ。


(……あっ)


自分でも気づいた。


胸が一瞬だけ凍る。


(だめ……崩れる)


そう思った瞬間だった。



---


■ 詩の視線


舞台袖で見ていた佐久間詩は、 思わず手を握った。


(紗江ちゃん……)


昨日までの紗江なら、 この小さな揺れで心が崩れていたかもしれない。


でも――


詩は気づいた。


紗江の歌が、止まらないことに。



---


■ 揺れの向こう側


紗江は一度、息を吸い直す。


(大丈夫……まだ、歌える)


音が揺れた。

でも、それで終わりじゃない。


むしろ――


(今のが……私)


完璧じゃない。


自信も足りない。


それでもここに立っている。


その事実が、胸の奥に静かに灯る。



---


■ 玲の分析


舞台袖の奥で、星野玲は腕を組みながら聴いていた。


(……そうか)


最初の不安定さ。


だが、それは単なる弱さではない。


(この子の声は、“揺れる透明”だ)


ガラスのような声。


強く押せば割れる。


けれど、光を通す。


玲の目がわずかに細くなる。


(面白い……)



---


■ 声が広がる


紗江の歌は続く。


中音域が柔らかく広がる。


高音は少しだけ震える。


それでも――


声は止まらない。


むしろ、震えがそのまま“感情”になっていく。


観客席の空気が、少しずつ変わっていく。



---


■ 審査員席


風間はペンを止め、静かに呟いた。


「……なるほど」


紗江の歌には“完成”がない。


だが――


(この透明さは、嘘がない)


自信のなさも、迷いも、震えも。


全部がそのまま声になっている。


それが、妙に心に残る。



---


■ ラストフレーズ


曲の最後。


紗江は胸の奥に浮かぶ言葉を思い出した。


(今日までの……私自身に)


ここまで来た。


震えながら。


迷いながら。


それでも――ここに立った。


最後のフレーズを、そっと押し出す。


声は、ほんの少し震えていた。


けれど、その震えは消えなかった。


消さなかった。



---


■ 音の余韻


歌が終わる。


ホールに、静かな余韻が残る。


一瞬の沈黙。


そして――


拍手が広がった。


ゆっくりと。

だが確かに。



---


■ 舞台袖へ


紗江は軽く頭を下げ、舞台袖へ戻る。


足がまだ少し震えている。


けれど、胸の奥には不思議な温かさがあった。


(……終わった)


詩がすぐに駆け寄る。


「紗江ちゃん!」


紗江は少し照れたように笑う。


「ちょっと……揺れちゃった」


詩は首を振った。


「でも、すごく……紗江ちゃんだった」



---


■ 玲の一言


玲がゆっくり歩いてくる。


そして短く言った。


「いい声だった」


紗江は目を丸くする。


玲は続けた。


「あなたの声、消そうとしないほうがいい」


その言葉の意味を、紗江はすぐには理解できなかった。


けれど――


胸の奥で、何かが静かに灯った。



---


■ 次の舞台へ


ステージでは次の参加者の準備が始まっている。


オーディションはまだ続く。


詩。

玲。

紗江。

そして、まだ見ぬ声たち。


それぞれの“音”が、同じ舞台で交差していく。


二日目の午後は、まだ終わらない。



---


(第20話・了 → 第21話「審査員席の波紋 ――風間隼の違和感」へ続く)

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