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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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第17話 詩、舞台へ ――その一歩の意味




ステージに向かう短い通路を歩くたび、

佐久間詩の胸の奥で、静かに、しかし確かに音が鳴っていた。


(大丈夫……揺れない。揺れてるけど、ちゃんと前を向けてる)


足元に落ちる白い照明の影が、まるで「今の自分の形」を映しているように見えた。



---


■ 一歩、光へ


佐久間詩がステージに足を踏み入れた瞬間、

鳳雅シンフォニア・ドームの空気がふっと変わった。


観客席のざわめきが薄れ、

天井の光だけが彼女の肩にそっと落ちる。


(……広い)


昨日と同じホールのはずなのに、

景色はまるで違って見えた。


昨日の彼女は「舞台に立つこと」でいっぱいだった。

今日の彼女は「舞台の先にいる誰か」を見ていた。


審査員席では、風間隼がわずかに姿勢を変える。


(さあ……昨日の続きだ)


彼は詩の表情を見た瞬間、その“変化”を正確に読み取っていた。



---


■ 呼吸の調律


ピアノ奏者が彼女に軽くうなずく。

詩は深く、静かに息を吸った。


喉の奥がほどける。

肩の力が自然に抜ける。


(昨日みたいに、ただ必死になるんじゃなくて……

 今日の私の声を、ちゃんと届けたい)


伴奏が始まる前の、ほんの一瞬。

詩は観客席のどこか一点を見つめた。


その先に、誰かの顔があるわけじゃない。

「聴いてくれる誰か」がいる気配だけが、そこにあった。



---


■ 音の出だし


最初の音がホールに放たれた時――

風間は思わず、ペンを止めた。


(……昨日より、深い)


昨日の詩は“震えを抱えた声”だった。

今日の声には――震えを飲み込んだ強さがあった。


それは完璧とは言えない。

音程がわずかに揺れる場所もある。


だが、揺れが「弱さ」ではなく「感情」になっていた。



---


■ 玲の視線


舞台袖で見ている星野玲は、

目を細め、まるでその歌を“測る”ように聴いていた。


(……そう来たんだ)


一音目から違う。

昨日を越える気配がある。


玲は胸の奥でわずかに息をのんだ。


(この子……本当に、昨日より前に来てる)


嫉妬ではない。

羨望でもない。


ただ純粋な“刺激”が、彼女の背筋を熱くしていた。



---


■ 聞く側の景色、歌う側の景色


詩の歌は続く。


昨日よりも伸びる高音。

昨日よりも柔らかい中音。

昨日よりも深さを持つ低音。


それらがまだ不器用に重なりながら、

一つの物語としてホールに広がっていく。


(……見えてる)


詩は歌いながら気づいた。


観客席。

審査員席。

照明の光。


全部、昨日よりはっきり見えている。


(私、昨日よりちゃんと“ここにいる”)



---


■ ラストフレーズ


曲が終盤に差し掛かる。


詩は胸の奥にひそんでいた、ある言葉をそっと思い浮かべた。


――「昨日より一歩、前へ」


それは紗江が朝にかけた言葉でもあり、

玲が送った静かな挑戦でもあり、

自分自身への約束でもあった。


最後のフレーズが、ゆっくりとホールに落ちる。


伸び切る直前で、ほんの少しだけ震えた。

でも、詩はそのまま押し出した。


(これが……今日の私)



---


■ 静寂と拍手


音が切れた瞬間、ホールが静まり返る。


一秒。

二秒。


そして――


温かい拍手が静かに、しかし確かに広がった。


爆発的ではない。

でも、深い。


「……はぁっ……」


詩は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


(届いた……誰かに、ちゃんと)


涙ではない。

でも、胸が温かく満たされる感覚に包まれた。



---


■ 舞台袖へ


ステージ裏へ戻ると、玲が立っていた。


彼女は何も言わず、ただ一言だけ。


「いい歌だった」


その声は小さくても、どこまでも真っ直ぐだった。


詩は息を整え、静かにうなずいた。


(今日の私は、ちゃんと“ここ”に立てた)


そう思えた瞬間だった。



---


(第17話・了 → 第18話「玲の影、玲の光 ――彼女が見ていたもの」へ続く)



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