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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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第16話 午後三番 ――詩が見た景色




鳳雅シンフォニア・ドームの照明が、ゆっくりと午後のステージへと焦点を移した。

午前の余韻は薄れ、空気は新しい緊張で張りつめている。


佐久間詩は舞台袖の壁にもたれ、深く息を吸った。


(……胸が静かだ)


昨日より落ち着いている。

でもその静けさの底には、熱い波がひそやかにうねっていた。


「午後の出演者は──準備をお願いします」


スタッフの声に、舞台袖の空気がかすかに震えた。



---


■ 午後一番手 ――静かに火を灯す歌


午後一番手の少女が、ゆっくりとステージ中央へ進んでいく。

詩にとって名前は知らない出場者だが、背筋の伸びた姿に迷いはなかった。


照明が落ち、伴奏が始まる。


清らかでまっすぐな声。

技巧よりも、想いを届けるような歌だった。


詩はその歌を、胸にすっと吸い込むように聞いていた。


(……きれい……)


目立つわけではない。

派手でもない。

でも、舞台の空気がふっと温かくなる。


歌い終えた瞬間、静かな拍手が広がった。


「いいスタートだね」


背後で誰かが小さく呟く。

振り返ると、近畿代表・藤原葵が涼しげな表情で立っていた。


「午後の空気が整った感じがする。こういう流れ、嫌いじゃないわ」


詩は思わずうなずいた。



---


■ 午後二番手 ――藤原葵


舞台袖のモニターに、彼女の名前が映る。


【近畿代表・藤原葵】


詩が思わず息をのむ。


葵はすっと息を吸い、ステージへ向かって歩き出した。

その背中には、迷いが一つもない。


伴奏が始まる。

葵の声は、出だしから圧倒的だった。


透き通っているのに、芯がある。

氷のように澄んでいるのに、火のような情熱がにじむ。


(……すごい)


詩は手を胸の前で握りしめた。


歌が進むほどに、観客席の空気が変わっていく。

「この歌を聞き逃せない」という集中の波がホール全体を覆う。


風間隼が審査員席でペンを走らせるのが、モニター越しに見えた。


葵のラストの高音が、ホールの天井を震わせるように伸びる。


――沈黙。


一瞬遅れて、波のような拍手が巻き起こった。


「……すごい、ほんとに」


詩は震える声で呟いた。

緊張ではなく、純粋な感動だった。



---


■ 揺れる空気、揺れない心


葵がステージから戻ってきた。

汗はほとんど見えない。

ただ少しだけ、息が上がっている。


「詩ちゃん、次はあなたの番ね」


葵は淡く微笑んだ。


「私の歌、どうだった?」


「すごかった……胸に刺さる感じで……」


「なら良かった。ちゃんと“勝ちに行く歌”を歌えた気がする」


言葉に刺すような強さはなく、むしろ柔らかい。

葵は詩を横目で見て、続けた。


「あなたの番を楽しみにしてる。昨日の続きが、今日どう響くのか」


それはプレッシャーではなく、背中をそっと押す力だった。


詩は深く息を吸う。


(揺れない……大丈夫。揺れない)


でも、心は確かに揺れている。

揺れて、震えて、前に進む準備をしている震え。


照明の色が変わる。


スタッフが手を上げた。


「――午後三番、準備お願いします」


詩の足が自然に前へ出た。



---


■ 舞台袖で見えた景色


ステージへ続く通路。


そこには、光と影の境界線が伸びている。


その先に立った瞬間、詩の視界に一気に世界が広がった。


ホールの客席。

審査員たちの静かな視線。

天井から降りそそぐ白い光。


(……これが、今日の景色)


昨日と同じステージでも、まるで違う世界。

詩は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。


背後で小さく声がした。


「詩さん」


玲だった。

彼女は静かに、しかし深い力で言った。


「見てきて。あなたの“今の景色”を全部」


詩はうなずいた。


(うん……全部、見てきてから、歌う)


その瞬間。


ステージアナウンスの声が響いた。


「――午後三番、佐久間詩さん」



---


光が詩の肩を包む。


第二日の舞台が、ついに彼女の足元へと開かれた。



---


(第16話・了 → 第17話「詩、舞台へ ――その一歩の意味」へ続く)



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