第322話 帰ってこない宰相
翌朝。
ガルリオン共和国王城、議会棟。リオンは自分の執務机の前で固まっていた。
正確には、固まらざるを得なかった。机の上には書類の山。その隣にも山。さらに後ろの棚にも山。
床には未処理の案件が入った木箱が並び、職員たちが次々と新しい書類を運び込んでくる。
「陛下、こちらは復興支援の追加申請です」
どさり。
「こちらは港湾整備計画の修正案になります」
どさり。
「こちらは至急確認をお願いします」
どさり。
積み上がる紙の束を見つめながら、リオンはゆっくり天井を仰いだ。
「……帰りたい」
ぽつりと漏れた本音に、近くにいた職員が思わず吹き出しかけた。
自分の城にいるのに帰りたい。
その気持ちは、今のリオンには痛いほど分かるものだった。
戦争は終わった。和平も成立した。友人のゼルファも助かった。
本来なら少しくらい落ち着いてもいい頃だ。
現実は違った。むしろ戦後だからこそ仕事が増えている。
「なんでこんなにあるんだ……」
半ば恨みがましく呟くと、近くで書類を整理していた財務担当官のバルドが即座に答えた。「戦争をしたからです」
「やっぱり?」
「当然です」あまりにも正論だった。
リオンは反論できず、静かに肩を落とした。
目の前の書類に手を伸ばす。復興予算の承認。道路補修計画。農地再建支援。学校建設。軍の編成。外交案件。貿易協定。港湾整備。
どれも後回しにできない。どれも国に必要な仕事だ。
だからこそ厄介だった。
「ガルヴァンなら三日で片付けるんだろうな……」何気なく呟く。
すると近くの職員が苦笑した。
「そのガルヴァン様がいらっしゃいませんので」
「だよなぁ……」
リオンは机に額をぶつけそうになった。
今の共和国最大の問題、それはガルヴァンが帰ってこないことである。
本当に帰ってこない。和平交渉。国境線の調整。賠償問題。貿易再開。三ヶ国との折衝。
面倒な案件を片っ端から任せた結果、彼は今も国外を飛び回っていた。
リオンは何度も思った。そろそろ帰ってくるだろうと。
一週間前も二週間前もそして、今日も。
そんな時だった。
一人の外交局職員が封筒を持って現れる。「陛下。ガルヴァン様からです」
「おお!」リオンの表情がぱっと明るくなった。
ようやく帰還報告かもしれない。急いで封を切る。
中には短い手紙が入っていた。
【帰れそうにない。】以上。
「……」リオンは無言で手紙を閉じた。
そっと机に置く。しばらく何も言わない。
「陛下?」
「……キリ」
「陛下?ユサユサ」
ようやく口を開いた。
「頭が痛い」本当に痛かった。
しかも、手紙はそれだけでは終わらなかった。
もう一枚、追加の報告書が入っている。
リオンは嫌な予感を覚えながら続きを読んだ。
グランゼル王国とレオルディア王国が再び揉めた。
【原因は賠償金の支払い方法。】
【現在俺が仲裁中。】
【正直助けてほしい。】
そこまで読んだところで、リオンは静かに天井を見上げた。
「無理だろ……」心からの返答だった。
周囲の職員たちも苦笑していた。皆知っている。ガルヴァンがどれほど仕事を抱えていたか普段は当たり前のように処理されていた案件の数々。
その本人が不在になった途端、共和国全体がその重要性を思い知らされていた。
「改めて考えると凄い人だったんだな」
リオンが呟く。
すると周囲の職員全員が揃って頷いた。
誰一人異論はなかった。
昼を過ぎても仕事は終わらない。
サイン。確認。押印。また確認。修正。
再確認。そして、押印。延々と続く。
気付けば肩も首も重くなっていた。
「これ、今日中に全部?」
「はい」
「明日じゃ駄目?」
「駄目です」即答だった。
リオンは遠い目をした。
夕方。
窓から差し込む夕日が執務室を赤く染めていた。
リオンは椅子にもたれかかる。体中から疲労が滲み出ている。
正直、前線で戦っていた時の方が楽だった気さえする。
そんなことを考えていると、窓の外を精霊たちがふわふわと飛んでいった。
『がんばれー』楽しそうな声が聞こえる。
「お前らが代わりにやれ」
『むりー』
「知ってる」思わず笑ってしまった。
少しだけ気が楽になる。本当に少しだけだったが。
夜。
ようやく最後の書類に判を押し終えた。
「終わった……」達成感と共に大きく息を吐く。
しかし、何気なく机の横を見る。そこには新しい書類の山が積まれていた。
「……」
沈黙。
「誰だ置いたの」
職員たちが一斉に目を逸らした。犯人は分かっている。仕事そのものだ。
リオンは椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
夜空には星が瞬いている。
「ガルヴァン……」親友の名前を呟く。
「頼むから早く帰ってきてくれ……」
それは王としてではなく、一人の友人としての切実な願いだった。
だがその頃、遠く離れた他国会議室では。
大量の外交官や役人たちに囲まれたガルヴァンが、机いっぱいの書類を前に深いため息を吐いていた。「帰りたい……」
誰にも聞こえない小さな呟きは、夜の帳の中へ静かに消えていった。




