八~十
八
九時をすぎたころデスクからメールが入った。取材状況を訊ねてきたのだ。良一はふんぎりがついた。三沢達男は現在危篤であり、新日の記者が来ていることを報告した。鞠子だって礼奈が小屋を見にこないことには、生死の判別ができないのだ。だったらいま、おれも鞠子もおなじスタートラインに立っている。抜かれることはありえない。
その後、礼奈や鞠子が石段をあがってくることはなかった。十一時半になり、ふたたびデスクがメールで聞いてきた。良一は燻製小屋から離れ、電話をかけた。
「いま、病室の真横にいます」
「新日は?」
「まだいると思います。だからよくて同着。うちだけ抜くなんてことはないでしょう。ただ逆に抜かれることもないと思いますよ」
豪語したのは自分を奮いたたせるためだった。
「同着で十分だ。抜かれなきゃいいんだよ」
だからあのとき抜かれたおまえは最低なんだよ。
遅くまで張りこむ記者をねぎらうつもりでデスクは言ったのだろうが、いまの良一は曲解することしかできなかった。
「すこし攻めてみようと思います」
「攻める?」
「待ってるだけじゃだめだってことですよ」
「気合い入ってるな」
無理するなよ――。
電話を切る最後の瞬間まで、デスクはそれだけは口にしなかった。それがまた良一を追いこんだ。良一は後輩に電話し、ルーマニアの民話に“黒の王子”というものが出てこないか調べるよう指示した。それからだれも小径を上がってこないことをたしかめると、良一はウッドデッキの下にもぐった。ハッチは指先に軽く力をこめただけで、たやすく開いた。良一は野良猫となって頭を突っこんだ。だれかが咳きこむような声がもういちど聞こえた。
九
狭いトンネルは一メートルも進まずにコンクリートにぶつかった。そこで行き止まりで、メーター類が目の前に並んでいた。良一は頭上を見あげた。電球の明かりが床板の合間から漏れてきていた。燻製小屋というだけあって、たしかに煙っぽい感じがする。死期が間近に迫った人間をこんなところに放置するなんて、たとえ本人の意思に基づくとしてもどうなんだろう。
金属の把手のようなものが頭上から突きだしていた。祈るような思いで良一はそれをつかみ、力をくわえた。重たい木の板だった。それが持ちあがったとき、歓喜のあまり声をあげそうになった。床下のトンネルは、思ったとおり小屋の内部につながっていたのである。なかに三沢がいるなら厄介だ。良一は慎重に板を持ちあげ、ようすをうかがったが、ひんやりとした白煙が充満していて視界がきかなかった。これが冷燻施設というのものなのか。だがこっちから見えないのなら、向こうからだって見えまい。相手は死線をさまよう老人だ。目だって白内障を併発していて見えないかもしれない。良一は思いきってハッチを押しあげ、蛇のように体を小屋のなかに滑りこませた。
白煙はひざの高さまで溜まっていた。さながら冬の朝の湖だった。良一は床に這いつくばったまま首だけ煙のうえに出した。
饐えた臭いがした。
教室の掃除用具入れに顔を突っこんだようだった。広さは十畳ほど。太い梁には生ハムとおぼしき肉塊がいくつか鉤からぶら下がっていた。それを裸電球がぼんやりと照らしている。小屋全体が燻製施設だった。良一は這ったまま前に出た。ひざが床の上のなにかをつぶした。ぐしゃりという感触が伝わった。
チノパンのひざが赤く染まっていた。良一は携帯のディスプレイを近づけた。
ルーマニアの密航者だった。
殺虫剤をも浸透させぬ甲羅も人間の体重には勝てなかった。ぺしゃんこにつぶされ、小さな体に溜めていた命の源をあらかた飛び散らせていた。それは人から吸い取った血のようだった。
サッシの隙間さえもすり抜けてしまうのだ。だったらこんなログハウス、侵入するのはたやすいだろう。良一はディスプレイを床に向けた。密航仲間はほかに見あたらなかった。
白煙の海のまんなかに細長い島のように横たわるものがあった。それがベッドなら納得できるのだが、疑問は増すばかりだった。良一は思いきって立ちあがった。
棺だった。
これも東欧趣味だろうか。王族の遺体を安置するようながっしりとした木製で、側面には様々な花の模様が彫りこまれていた。雑菌の繁殖した雑巾のような異臭はそこから漂っていた。
死臭のようだった。
ベッドは生きている者のためにある。でも棺は――。
興奮が良一の体を突き抜けた。
亡くなったんだ。
その言葉が頭をぐるぐると駆けめぐり、それ以上なにも考えられなくなった。それを振りきり、会社に電話をかけようとしたとき、棺のなかからシュルシュルという音が聞こえた。
良一はたじろいだ。聞きようによっては、肺を患う者の呼吸音のようであった。礼奈は鞠子に「徐々に弱っているようです」と話していた。まさかこの棺のなかにまだ息のある人間が押しこめられているのだろうか。良一は後輩のメールを思いだした。芹礼奈という名前は、三沢の劇団ばかりかほかの劇団にも見あたらないという。いったい彼女は何者で、なにがこの小屋で行われているのだ。
≪《「だれ……」》≫
良一は腰を抜かし、湿った煙のなかに尻もちをついた。またしてもなにかを踏みつけた感触がした。恐怖のなかに合点がいくところがひとつだけあった。外にいたときに、なかでだれかが咳きこむのが聞こえたが、そのときとおなじだった。
女の声だった。
「そこに……いる……の……?」
信じたくなかった。だが幻聴ではない。
「深井……おまえなのか?」
「たす……けて……」
棺に向かって良一は飛びだした。一か月前から行方不明になっているのは、ここに捕えられていたからなのか。
右足に激痛が走った。
良一は棺の前で床に崩れた。
なんでこんなものが……。激しい痛みに翻弄されながら、良一は激怒した。
トラバサミだった。
狩猟用の罠だ。床に鎖でつながれている。それをまんまと踏みつけてしまった。鋸歯状に刻まれた鋼の顎が深々とくるぶしの上に食いこんでいる。冷燻の煙のせいで気づかなかったのだ。チノパンの裾がたちまち真っ赤になった。両手で左右の顎を引き剥がそうとしたがびくともしない。棒かなにかを突っこんで、梃子にしなければ。
焼けるような痛みが突きぬけた。静脈が切断されたようだ。骨までやられたかもしれない。傷口が熱を帯びてきた。反対に背中から首筋にかけて寒気が広がった。もがくうちに足もとの煙が乱れ、床が目に入った。トラバサミがまるで花畑のようにあちこちで口を開けていた。そしてウサギの糞のような丸っこい塊も散らばっていた。それがこっちに向かってじわじわと這い寄ってくる。
「たすけて……」
棺のなかから深井が懇願したが、どうにもならなかった。良一は小屋のあちこちに目をやり、狩りの罠を解くのに使えそうなものを探した。
小屋の奥に薪が積んであった。良一のいるところから三メートルは離れている。トラバサミを床に固定する鎖は六十センチほどだった。良一はそれがのびきるところまで這っていき、痛みをこらえて体をのばした。薪の山まであと五十センチもなかったが、どうがんばっても届かなかった。まるで隣町に手をのばしているみたいだった。汗が噴きだしてきた。気が遠くなりかけ、歯を食いしばった。ジャケットを脱ぎ、投網のように薪の山に放ってみた。何度目かで薪の山が崩れ、何本かが良一のほうへ転がった。
深井がもういちど咳きこみ、荒い息が聞こえた。
「ひ……し……」
「待ってろ……こっちも……動けないんだ……!」
≪《「ひつぎ……した……」》≫
「もうちょっとだ……がまんしてくれ……!」
「ひつぎの……した……」
灼熱の痛みのなかで、良一は眉をひそめた。ひつぎのした……?
良一はジャケットを手放し、痛みをこらえて棺のほうへ這っていった。
「いま棺の下って言ったのか」
返事はなかった。だが棺の下には十センチほどの隙間があった。アンティークのバスタブのような猫足がついているのだ。良一は這いつくばってのぞいてみたが、暗くてよく見えない。
「なんだって言うんだよ」
べつのトラバサミに指を持っていかれる恐怖を押しのけて手を突っこんでみたが、なにも指先に触れなかった。腕を引っこめたとき、ワイシャツの袖になにかがぶつかった。ICレコーダーだった。
深井が愛用しているものだった。礼奈たちがいつ来るかわからない。音を出すわけにいかなかった。良一はジャケットのポケットからイヤホンを取りだし、再生しながらふたたび薪のほうに手をのばした。
十
手に入れた薪を梃子にしてトラバサミをこじ開けた。良一は足を引きずりながら立ちあがり、棺のふたに手をかけた。石のように重いふただった。力をこめると足が激しく痛み、一瞬意識が途切れた。わずかにずれてできた隙間から、猛烈な腐敗臭が噴きあがってきた。腐った雑巾どころでない。雑巾が拭き取る汚物そのものだった。棺のなかが見えた。ふたのすぐ下までどろりとした真っ黒い液体が溜まっている。それが悪臭の源だった。小さなひしゃくが浮いている。それで液体をすくって注ぐらしい。ならばこの黒いエキスのようなものが、ボウルに受けるべき月の女神セレナの涙なのだろうか。
「深井……いるのか……」
返事はなかった。なかの液体に沈んでしまったのだろうか。暗くてよくわからなかった。さらにふたをずらし、棺のなかに目を凝らした。産廃施設のヘドロのようだった。良一は顔をしかめた。そのとき、眼下で爆発が起きた。
人間の顔が浮かびあがっていた。
激しく咳きこみ、吐き散らしたものが良一の顔に飛び散った。汚臭がひときわ強まった。
「深井……」
良一は携帯のディスプレイでなかを照らそうとした。
≪《「見ないで!」》≫
それまでの瀕死の声とは真逆の、いつもの気の強い女の口調だった。だが見ないわけにいかなかった。
これが黒の王子なのか。
顔一面が黒光りする碁石のようなもので埋めつくされていた。ひとつひとつが皮膚にへばりつき、かすかに振動している。わずかにのぞく顔の肉には、血液が染みだしてきていた。王子たちはそれを餌にして体が膨れあがっているようだった。べっとりと濡れた髪もそれ自体が生きているかのようにゆっくりとうねっていた。東欧の奥深い森では、こんな連中が王国を築いているのだろうか。小さな体いっぱいに吸い取った血を消化して、ヘドロじみた汚物として排泄しながら。
小屋の外で人の気配がした。
タカノか鞠子か。それとも礼奈――。良一は合点した。「黒の王子たち」の主演俳優、西村鋼によれば、黒の王子と面会したファムケシュは、ある生け贄を差しだし、かわりに月の女神セレナの涙をボウルに受ける。芹、礼奈……セレナ――。
良一は腕時計を見た。一時二十分になる。いよいよ最終版の締め切りだ。
ヘドロが波だち、片方の腕が力なく突きだされた。フライドチキンの食べかすのようだった。その表面を埋めつくしているのも、無数の黒い甲虫だった。良一は明かりを近づけ、息を飲んだ。手首からひじにかけての静脈内をいくつもの丸みを帯びたものが、渋滞中の首都高の車列のようにゆっくりと移動していたのだ。
そのとき携帯にメールが着信した。
後輩からだった。良一はメールを開いた。
「ヴラドだって――」
「死に……たく……な……」
「わかってるよ……ヴラド……どういうことだ……」
「たすけて……まつばら……くん……」
「わかってるって……いま考えてるんだ」
外のウッドデッキにあがってくる足音がした。良一はもういちど時計を見た。




